• 木を剪定するなどの外作業を1時間ほどやった。帽子も被って熱中症対策をしたつもりだが、しばらく経ってから頭痛を発症。

    しばらく寝ていたら少し良くなったが、そうか、脱水してるせいか、と思い至り、水分を補給する。そういえば作業した後に滝のように汗をかいたんだった。意外と脱水していても喉の渇きを感じなかったりする。

  • Webから本を注文し、近くの書店で受け取れるというサービスがいくつかある。大手取次のトーハンがやっている「e-hon」、日販がやっている「Honya Club」が代表的。代金は受け取る書店で支払うため、書店の売上になり、地元の書店を応援できるという趣旨。送料も無料。

    e-honってこんなサービスです!│オンライン書店e-hon
    :オンライン書店Honya Club com

    amazonの台頭によって中小の書店は絶滅しつつあるが、やっぱり町の本屋は文化資本として消えて欲しくないと思う人たちの間で、こうしたしくみがちょくちょく注目されている。

    すぐに必要な本は amazon で買うが、急ぎでない本はこういうのでもいいな、amazon 嫌いだし、と思って e-hon と Honya Club のアカウントを作ってみたが、本の受取場所として選べる書店を見てみると、うちの市内では e-hon はわずか1店、Honya Club は3店しかなく、イオンに入っている未来堂書店とか蔦屋とか、結局大手資本の書店しか選べない。地元に昔からある老舗の2店はリストに入っていなかった。

    未来堂とか蔦屋は放っておいても潰れないし、品揃えの面でも大して本への愛を感じない店たちなので個人的にはどうでもよい。どうせなら子供の頃から世話になった商店街の本屋を応援したいのに、そういう店を受取先として選べないのはなぜだろうと思い、実際に店に赴いて尋ねてみた。(ついでにそれぞれの店で本の取り寄せも依頼。)

    駅から一番近く、長年にわたり教科書販売店になっているA店。別冊 Newton の品揃えが豊富。

    「(e-hon や Honya Club の存在を)よく知らない。聞いたことがない」「販売量が多い店でないと、そもそも取次からそういうシステムの話を勧められないのではないか」。

    A店の次に駅に近い、地元商店街のB店。やはり教科書販売店で、国土地理院地形図も扱っている。

    「e-hon はずいぶん前から存在は知っていて、加盟しようと思ったこともあったが、確か金を取られるしくみだったような。それでやめた気がする。今はどうなっているのか分からないですが」「加盟するときに登録料を取られるのと、その後も8,000円だったか、売上が立つごとに手数料を取られるとか、そんな感じだった」。

    これらはそれぞれの店主さんがおっしゃったことなので、勘違いや間違いがあるかもしれない。もし本当にそうなら、取次が言う「本屋を応援する」という趣旨とはかけ離れているというか、零細書店にしてみればあまりメリットを感じないかもしれんなぁという感じ。

    B店の店主さんは「うちみたいな店を気にかけていただいてありがとうございます」「弱小なもので…」と恐縮されていた。

    ただし、どちらの店の人もあまりネットだとかは得意でなさそうで、こういうしくみ自体に興味がない可能性もある。春の教科書販売でどっさり売上が立つので日々の商売をあんまり頑張らなくてもいい、という空気も感じる。B店には某巨大新興宗教の本がたくさん置かれており、そちらだけでも食っていけるのかも。

    一応、e-hon と Honya Club にも「こういう話があったけど」という質問をした。返事待ち。

  • 7/21(日)

    友人と会食。新宿中村屋の純印度式カリーを食す。美味しかった。食べたのは初めてか、遠い昔に食べたことがあったかもしれない。

    日曜なのでどこも混んでいる。お茶を喫したかったが、隣の高野に行ってみたら大行列。らんぶるに行ったらこちらも行列だったが、回転が速かったのであまり待たずに席に落ち着くことができた。名曲喫茶だが、いつ来てもがやがやしていてBGMはあまり聞こえない。

    いま新宿で喫茶店を出したら簡単に儲かるんじゃないかと思うくらい、カフェ不足を感じる。

    灼熱のために折り畳み傘を日傘代わりに差して移動してみた。ないよりはましだが、雨傘は日光が透けるせいか、あまり涼しさは感じない。路面からの照り返しの方がきついせいかもしれない。少し歩いただけで紫外線による目の疲れが来る。

    友人が ATM で新紙幣をたくさん入手したというので、1枚交換してもらった。初めて見る。凝った仕掛けがあって面白い。1万円は左のホログラムの部分が場所を取っているせいか、横方向の長さを少し短く感じる。裏面の「10000」の文字色がだいぶ風変わり。サンセリフの10000はまあ安っぽいといえば安っぽいが、ユニバーサルデザインを採り入れた未来のお札という感じもある。世の中が昔より少しずつ良くなっている象徴だと思えば悪くない。

    12倍のキズミで見ると、凹版印刷のインクの盛り上がりや照りが大変美しく、見飽きない。ホログラムの精緻さも凄い。ただ、細かいヒビが早くもホログラムに入っているようにも見えた。この部分の耐久性がどうなのかは謎。

    マイクロ文字は日銀の広報資料に載っていない部分にも入っていて、自分は表で3か所、裏で3か所見つけた。

  • 月1,200円の有料プランで DeepL を使っているが、この DeepL で新たな LLM を使えるようになったとか。性能が上がったらしい。

    DeepL は出たての頃は凄いと思ったが、今となっては最高という感じでもない。訳し漏れがしばしば発生するのが特に使いづらい。最近はさまざまな AI サービスでもっと安くて良い翻訳ができるのでは、と思い、いろいろ聞いた結果、Anthropic(OpenAI から独立した人たちの会社)の Claude がいいらしいとの噂。なので、DeepL の新LLM版と併せて試用してみた。

    英文

    たまたまヴァザーリの英語版 Wikipedia の記事を開いていたので、これの冒頭を訳させる。

    Giorgio Vasari (/vəˈsɑːri/, also US: /-ˈzɑːr-, vɑːˈzɑːri/,[1][2][3][4] Italian: [ˈdʒordʒo vaˈzaːri]; 30 July 1511 – 27 June 1574) was an Italian Renaissance painter and architect, who is best known for his work Lives of the Most Excellent Painters, Sculptors, and Architects, considered the ideological foundation of all art-historical writing, and still much cited in modern biographies of the many Italian Renaissance artists he covers, including Leonardo da Vinci and Michelangelo, although he is now regarded as including many factual errors, especially when covering artists from before he was born.

    Giorgio was a Mannerist painter who was highly regarded both as a painter and architect in his day, but rather less so in later centuries. He was effectively what would now be called the minister of culture to the Medici court in Florence, and the Lives promoted, with enduring success, the idea of Florentine superiority in the visual arts.

    Vasari designed the Tomb of Michelangelo, his hero, in the Basilica of Santa Croce, Florence that was completed in 1578. Based on Vasari’s text in print about Giotto‘s new manner of painting as a rinascita (rebirth), author Jules Michelet in his Histoire de France (1835)[5] suggested the adoption of Vasari’s concept, using the term Renaissance (rebirth, in French) to distinguish the cultural change. The term was adopted thereafter in historiography and is still in use today.

    Life

    Vasari was born prematurely on 30 July 1511 in Arezzo, Tuscany.[6] Recommended at an early age by his cousin Luca Signorelli, he became a pupil of Guglielmo da Marsiglia, a skillful painter of stained glass.[7][8] Sent to Florence at the age of sixteen by Cardinal Silvio Passerini, he joined the circle of Andrea del Sarto and his pupils, Rosso Fiorentino and Jacopo Pontormo, where his humanist education was encouraged. He was befriended by Michelangelo, whose painting style would influence his own.

    Vasari enjoyed high repute during his lifetime and amassed a considerable fortune. He married Niccolosa Bacci, a member of one of the richest and most prominent families of Arezzo. He was made Knight of the Golden Spur by the Pope. He was elected to the municipal council of his native town and finally, rose to the supreme office of gonfaloniere.[8]

    He built a fine house in Arezzo in 1547 and decorated its walls and vaults with paintings. It is now a museum in his honour named the Casa Vasari, whilst his residence in Florence is also preserved.[citation needed]

    In 1563, he helped found the Florentine Accademia e Compagnia delle Arti del Disegno, with Grand Duke Cosimo I de’ Medici and Michelangelo as capi of the institution. Thirty-six artists were chosen as members.[9]

    He died on 27 June 1574 in Florence, Grand Duchy of Tuscany, aged 62.[6]

    DeepL 従来版

    ジョルジョ・ヴァザーリ(/vəˈːri/, US: /-ˈzɑː, vɑˈzɑː, [1][2][3][4] イタリア語: [ˈdʒo vaˈzaːri]; 1511年7月30日 – 1574年6月27日)は、イタリア・ルネサンス期の画家、建築家であり、その著作『最も優れた画家、彫刻家、建築家の生涯』(Lives of the Most Excellent Painters, Sculptors, and Architects)で知られる。

    ジョルジョはマニエリスムの画家で、当時は画家としても建築家としても高く評価されていたが、後の世紀ではむしろ低く評価されている。彼は事実上、フィレンツェのメディチ家宮廷の文化大臣と呼ばれた人物であり、その生涯は、視覚芸術におけるフィレンツェの優位性という考えを広めることで永続的な成功を収めた。

    ヴァザーリは、1578年に完成したフィレンツェのサンタ・クローチェ聖堂にある英雄ミケランジェロの墓を設計した。ジョットの新しい画法をリナシタ(再生)と表現したヴァザーリの文章をもとに、作家ジュール・ミシュレは『フランス史』(1835年)[5]の中で、文化的変化を区別するためにルネサンス(フランス語で再生)という言葉を使い、ヴァザーリの概念の採用を提案した。その後、この用語は歴史学に採用され、現在も使用されている。


    生涯

    ヴァザーリは1511年7月30日にトスカーナ州アレッツォで早生まれした[6]。幼い頃に従兄弟のルカ・シニョレッリに勧められ、ステンドグラスの巧みな画家であったグリエルモ・ダ・マルシーリアの弟子となった[7][8]。16歳の時にシルヴィオ・パッセリーニ枢機卿によってフィレンツェに送られ、アンドレア・デル・サルトとその弟子であるロッソ・フィオレンティーノ、ヤコポ・ポントルモのサークルに入り、そこで人文主義教育を受けた。ミケランジェロとも親交を深め、その画風は自身の画風にも影響を与えた。

    ヴァザーリは生前から高い評価を得ており、かなりの財産を築いた。アレッツォで最も裕福な名家の一人であったニッコローザ・バッチと結婚。ローマ教皇から金の鞭の騎士の称号を与えられる。生まれ故郷の市議会議員に選出され、ついにはゴンファロニエーレという最高の役職にまで上り詰めた[8]。

    1547年、アレッツォに立派な邸宅を建て、その壁と丸天井を絵画で飾った。現在、この邸宅はヴァザーリの名を冠した美術館となっており、フィレンツェの邸宅も保存されている[要出典]。

    1563年、コジモ1世デ・メディチ大公とミケランジェロを会長とするフィレンツェ絵画アカデミーの設立に協力。36人の芸術家がメンバーに選ばれた[9]。

    1574年6月27日、トスカーナ大公国のフィレンツェで死去、62歳[6]。

    最初の段落は長い一文からできていて少し意地悪だが、”, considered the ideological foundation of …” 以降がごっそり訳し漏れで消えている。関係代名詞や関係副詞でだらだら続くような長文に弱い。あと、ここでは大丈夫だったが、[1] のような脚注番号に惑わされてそれ以降が消えてしまうことも多い。

    Knight of the Golden Spur というのは馬に乗る人がブーツの踵に付ける「拍車」を模した勲章で、訳すなら「黄金拍車騎士」という感じだと思うが、「金の鞭の騎士」と訳されてしまっている。まあこういうのは鵜呑みにしないで必ず裏取りするのでいいんだけど。

    DeepL 新 LLM 版

    ジョルジョ・ヴァザーリ(/vəˈsɑːri/、米国では/-ˈzɑːr-, vɑːˈzɑːri/、[1][2][3][4]イタリア語: [ˈdʒordʒo vaˈzaːri]; 1511年7月30日 – 1574年6月27日)は、イタリアのルネサンス期の画家、建築家。代表作『最も優れた画家、彫刻家、建築家たちの人生』で知られる。これは、美術史に関するあらゆる著作の思想的基盤とみなされており、レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロなど、彼が取り上げた多くのイタリア・ルネサンス期の芸術家の現代伝記でも、今でも頻繁に引用されています。ただし、現在では、特に彼が生まれる前の芸術家を取り上げた場合、多くの事実誤認が含まれていると考えられています。
    ジョルジョは、マニエリスムの画家であり、当時、画家としても建築家としても高く評価されていたが、後世ではそれほど評価されていない。彼は、フィレンツェのメディチ家宮廷の文化大臣のような存在であり、『ライフ』は、視覚芸術におけるフィレンツェの優位性を永続的に広めることに成功した。
    ヴァザーリは、1578年に完成したフィレンツェのサンタ・クローチェ聖堂に、自身のヒーローであるミケランジェロの墓を設計した。ジョットの新絵画様式をルネサンス(フランス語で「再生」)としてヴァザーリの文章を印刷したジュレス・ミシュレは、著書『フランス史』(1835年)でヴァザーリの概念を採用し、文化の変化を区別するためにルネサンス(フランス語で「再生」)という用語を使用することを提案した。この用語はその後歴史学で採用され、現在でも使用されている。


    生涯

    ヴァザーリは1511年7月30日、トスカーナ州アレッツォで早産により生まれた[6]。幼い頃から従兄弟のルカ・シニョレッリに勧められ、ステンドグラスの名手であったグイエルモ・ダ・マルシリアに弟子入りした 。16歳の時に枢機卿シルヴィオ・パッセリーニによってフィレンツェに送られたヴァザーリは、アンドレア・デル・サルトとその弟子であるロッソ・フィオレンティーノ、ヤコポ・ポントルモのサークルに加わり、そこで人文主義的教育を受けた。彼はミケランジェロと親交を深め、ミケランジェロの絵画スタイルはヴァザーリの絵画スタイルにも影響を与えた。
    ヴァザーリは生前高い評価を受け、かなりの財産を築きました。彼はアレッツォで最も裕福で著名な一族の一員であるニコロサ・バッツィと結婚しました。ヴァザーリは教皇から金蹄鉄騎士に叙任されました。彼は故郷の市議会議員に選出され、最終的に最高職であるゴンファロニエーレに昇進しました[8]。
    1547年、彼はアレッツォに立派な家を建て、その壁や天井を絵画で飾りました。現在、その家は彼の栄誉を称えてヴァザーリ邸と呼ばれ、美術館となっています。一方、フィレンツェの彼の住居も保存されています。
    1563年、彼はフィレンツェの芸術アカデミーと芸術デザイン協会の設立に協力し、大公コジモ1世・デ・メディチとミケランジェロをその組織の首長とした。36人の芸術家が会員に選ばれた[9]。
    1574年6月27日、フィレンツェ(トスカーナ大公国)にて62歳で死去した[6]。

    訳し漏れがなくなっているのと、和訳がこなれている印象。悪くない。

    失点としては、冒頭に出てきた書名 Lives of the Most Excellent Painters, Sculptors, and Architects を『最も優れた画家、彫刻家、建築家たちの人生』と訳したにもかかわらず、同じ書名が2度目に Lives と略して登場する部分(これも意地悪ではあるが)を『ライフ』と訳してしまっており、同じ書名であると認識できていない。

    勲章の名前は「金蹄鉄騎士」になってしまっている。

    常体と敬体が混ざっているが、これは設定でどちらかに統一することが可能。

    Claude 3.5 Sonnet

    ジョルジョ・ヴァザーリ(/vəˈsɑːri/、米国では/-ˈzɑːr-, vɑːˈzɑːri/[1][2][3][4]、イタリア語: [ˈdʒordʒo vaˈzaːri];1511年7月30日 – 1574年6月27日)は、イタリア・ルネサンス期の画家、建築家で、最も有名な作品は『最も優れた画家、彫刻家、建築家の生涯』です。この作品は芸術史に関するあらゆる著作の思想的基盤とされ、レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロを含む多くのイタリア・ルネサンス期の芸術家の現代の伝記でも頻繁に引用されています。ただし、現在では特に彼の生まれる前の芸術家に関して多くの事実誤認があると考えられています。

    ジョルジョはマニエリスム様式の画家で、当時は画家としても建築家としても高く評価されていましたが、後世ではそれほどではありません。彼は実質的に、現在で言うところのフィレンツェのメディチ家宮廷の文化大臣のような存在でした。『生涯』は、視覚芸術におけるフィレンツェの優位性という考えを、長続きする成功とともに推進しました。

    ヴァザーリは、彼の英雄であるミケランジェロの墓をフィレンツェのサンタ・クローチェ聖堂に設計し、1578年に完成しました。ジョットの新しい絵画様式を「リナシータ(再生)」と表現したヴァザーリの印刷されたテキストに基づき、著者ジュール・ミシュレは『フランス史』(1835年)[5]でヴァザーリの概念の採用を提案し、「ルネサンス(フランス語で再生)」という用語を用いて文化的変化を区別しました。この用語はその後、歴史学で採用され、現在も使用されています。

    生涯

    ヴァザーリは1511年7月30日、トスカーナ州アレッツォで早産で生まれました。[6] 幼い頃、従兄のルカ・シニョレッリの推薦により、熟練したステンドグラス画家グリエルモ・ダ・マルシリアの弟子となりました。[7][8] 16歳の時、シルヴィオ・パッセリーニ枢機卿によってフィレンツェに送られ、アンドレア・デル・サルトとその弟子たち、ロッソ・フィオレンティーノとヤコポ・ポントルモのサークルに加わり、そこで人文主義教育を受けました。ミケランジェロと親交を深め、その絵画様式が彼自身の様式に影響を与えることになります。

    ヴァザーリは生前から高い評価を受け、かなりの財産を築きました。アレッツォの最も裕福で有力な家族の一つ、バッチ家のニッコロサと結婚しました。法王から黄金拍車騎士に叙任されました。故郷の市議会議員に選出され、最終的には最高職である旗手(ゴンファロニエーレ)にまで上り詰めました。[8]

    1547年にアレッツォに立派な邸宅を建て、その壁や天井を絵画で装飾しました。現在はカーサ・ヴァザーリという彼を称える博物館となっています。フィレンツェの邸宅も保存されています。[要出典]

    1563年、コジモ1世とミケランジェロを組織の長(カピ)として、フィレンツェの「アカデミア・エ・コンパニア・デッレ・アルティ・デル・ディセーニョ」の設立を支援しました。36人の芸術家が会員として選ばれました。[9]

    1574年6月27日、トスカーナ大公国フィレンツェにて62歳で死去しました。[6]

    ほぼ文句のない出来。訳し漏れや書名の訳し方が変わってしまうミスもみられない。勲章の名前もOK。”gonfaloniere” が「旗手」を意味することも補足されている。

    なお、最初に訳させたときには脚注番号が全部落ちていたが、

    文中の[1]などは脚注番号なので、削除せずに残してもう一度訳してください。

    と指示したら、

    承知しました。脚注番号を残して再度翻訳いたします。

    と言って上記の訳文を出してきた。なんて聞き分けの良い子。

    Claude 3.5 Sonnet は無料プランでは回数制限があり、10回くらい使うと数時間待たされる。有料プランは月$20。

    DeepL 有料版は安くていいのと、Mac のどのウィンドウ内でも範囲選択→ Command + C + C ですぐ訳せる UI の便利さがあるのだが、訳文の質の良さを考えるとこういう最新 AI に月$20払うのも悪くない気もしてきた。翻訳以外の用途にも使えると考えれば特に。うーむ。

  • 最初と最後のページに載っていた読み物が好きだった。

    ミケランジェロがダビデ像を完成させたとき、偉い人が見に来て「ふむ、なかなか良いが、鼻が少し高すぎやしないかね」と言った。ミケランジェロは「なるほど、承知しました」と言って鑿を持って梯子を上り、ダビデの鼻の部分をカンカンと鑿で削るふりをしながら、こっそり手に握っていた石の粉をぱらぱらと落とした。それから下へ降りて「いかがでしょう」と尋ねると、偉い人は「うむ、良くなった」と満足して帰っていった。

    …という話が載っていたのを今でも覚えている。たいていの人は物の本質など見ていない、というお話。

    「ジャポニカ ミケランジェロ」で検索したら、この読み物を覚えている人がすぐ見つかった。ネットは凄い。

    この手の話はたいてい出所不明とか後世の創作とかが多いが、ミケランジェロのこのエピソードはヴァザーリの有名な『芸術家列伝』に出てくる話だった。

    この像を目の当りにしたピエーロ・ソデリーニは非常に満足したが、ミケランジェロがいくつかの部分に再び手を入れた際に、彼に向かって、この像の鼻は大きすぎるように見えるといった。ミケランジェロは、市政長官が巨像の下におり、そこから見たのでは実際に彫っているところが見えないとわかっていたので、彼を満足させるために、肩のかたわらにある足場の上に登り、すばやく左手に鑿を取った。足場の架台の上にあった大理石のわずかな粉といっしょに取り上げ、鑿で軽くとんとんやり始めると同時に、少しずつ粉が落ちていくようにした。実際には、鼻に手をかけはしなかったのである。それから、見守っていた市政長官のほうを見おろして言った。「さあ、見てごらんなさい」。「うん、ずっと気に入ったぞ」。「君はそれに命を与えたわけだな」。市政長官は言った。それでミケランジェロは下におりたが、なんでもわかっているような振りをしたがり、そのくせ自分で言っていることがわかってもいない人々に同情しながらも、苦笑していた。

    ジョルジョ・ヴァザーリ『芸術家列伝3 レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ』田中英道・森雅彦訳、白水社、2011

    ヴァザーリ(1511–1574)はミケランジェロ(1475–1564)と親交があったが、ダビデ像は1504年完成なのでヴァザーリ自身はこの話をリアルタイムで見聞したわけではないはず。