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ワダさんシマザキさんインタビュー

読売新聞ポッドキャストで2022年8月に公開された動画が再公開されていた。「山田五郎 オトナの教養講座」を制作している(いた)東阪企画のワダさん・シマザキさんへのインタビュー。

googleアナリティクスでこのblogへのアクセスをたまに確認しているが、いまだに一番アクセスが多いのがワダさん卒業について書いたエントリだったりする。ワダさんロスの人が多いのか。

ワダさんの元々の企画書では、五郎さんにギターで歌ってもらうというのがメインだったらしい。チャンネルの初期に美術ネタの替え歌を五郎さんが弾き語りするという謎の回が何度かあったが、そういうことだったのか。普通に絵画の蘊蓄を語る回に比べて驚くほど再生数が伸びず、最近やらなくなってしまった。

ワダさんは元々ライブイベントの企画の仕事をしたかったが、就活の時期にコロナで世間のライブイベントが壊滅したため、近い分野としてテレビ番組制作会社に入ったというわけらしい。辞めたのは、コロナが落ち着いたので本来の志望だったイベント企画の分野に改めて転職したかったということか。ともあれ、ご活躍をお祈りしております。

ワダさん卒業

「山田五郎 オトナの教養講座」のアシスタントを務めていたワダさんが東阪企画を退社するため、チャンネルも卒業との報せ。悲しい。

登録者数49万人で、文化・教養系のYouTubeチャンネルとしては大きく成功したコンテンツの一つだと思う。番組制作会社に入った普通の20代の新人さんが、コロナ禍で仕事が激減した業界の余剰リソースを利用して、特に美術に詳しいわけでもないまま企画を立ち上げ、ここまでの番組にしたのは凄い。ワダさんが「詳しくない人」としてゆるい聞き手をつとめながら、低予算感あふれる画面編集で見せたことで、視聴者がアートを楽しむ敷居を劇的に下げた、奇跡のようなチャンネルになった。

これほど成功したワダちゃんだから敏腕テレビマンとしてこれからバリバリ出世していくのだろうと思ったら、あっさり辞めて別の仕事をするという。すげー。ただまあ、ちょっと分かるような気もする。番組が分不相応に大きくなりすぎたという感じだろうか。知らんけど。

この番組を見ているおかげで、ルネサンスから20世紀までの西洋美術史の大まかな流れを自然と覚えてしまった。ほんと凄い番組。アシスタントは五郎さんの事務所のアルバイトをしている「瓜谷さん」に交代し、番組は今後も続くとのこと。ブラタモリのアナウンサー交代みたいな感じ。

ムンクが「震え、戦っていた」という誤訳の発生と伝播

YouTubeの「山田五郎 大人の教養講座」が好きでよく見ている。BS日テレ「ぶらぶら美術・博物館」と同じ東阪企画が制作している、ゆるく美術を語るチャンネル。

ムンクの『叫び』を解説した回で、この作品のきっかけとなった体験をムンク自身が書き残した文章が紹介されている。

は2人の友人と歩道を歩いていた。太陽は沈みかけていた。突然、空が血の赤色に変わった。私は立ち止まり、酷い疲れを感じて柵に寄り掛かった。それは炎の舌と血とが青黒いフィヨルドと町並みに被さるようであった。友人は歩き続けたが、私はそこに立ち尽くしたまま不安に震え、戦っていた。そして私は、自然を貫く果てしない叫びを聴いた。

この「震え、戦っていた」を聞いて、何となく誤訳の臭いを感じた。戦っていた? 何と? という部分を言っていないのは、目的語や補語をあまり略さない西洋語の文としてはなんか変だな、と。

五郎さん曰く、出典はムンクの日記だという。日本語版Wikipediaを見ると確かにこの文章が載っていて、「震え、戦っていた」と書かれている。これを引用したのだろう。

英語版Wikipediaも見てみる。英語版によると、この文章はムンクがこの体験をした当日の日記とはまた別で、後年の回想で書かれたものらしい。ともあれ、(ノルウェー語ではなく当然英訳だが)該当する文章が引用されている。

I was walking along the road with two friends – the sun was setting – suddenly the sky turned blood red – I paused, feeling exhausted, and leaned on the fence – there was blood and tongues of fire above the blue-black fjord and the city – my friends walked on, and I stood there trembling with anxiety – and I sensed an infinite scream passing through nature.

“trembling” としか書かれていない。はて、「戦っていた」はどっから出てきた?

…というところで思い付くのが、「震戦」「戦慄」という言葉である。「戦」には「おののく(戦く)」という訓読みがある。これ、「震え、戦いていた(おののいていた)」だったんじゃないの?

ということで、日本語版Wikipediaの該当記事の編集履歴をたどってみる。やはりだった。2008年1月13日の編集で「震え戦いていた」という訳文が最初に追加されている。

これ以降、読点が追加されたりもしたが、

とにかく当初は「震え、戦いていた」だったことが判明。

ところが、2年後の2010年3月8日の編集で、「戦いて」が「戦って」に変更されてしまっている。

ご丁寧にも「戦いてを戦ってに」という編集内容の要約が残されている。この編集を行ったIPユーザーは「おののいて」という読みを知らなかったのだろうか。

これ以降、記事は「震え、戦っていた」のまま直す人もなく、日本でだけ、ムンクは「戦っていた」ことになってしまった。

現在、「”ムンク” “震え、戦っていた”」で検索すると、実に2,410件ものwebサイトがヒットする。「戦いて」を正しく読めなかった一人のWikipedia加筆者の間違いが孫引きされ、これほど広まった。有名な美術サイトの「MUSEY」や東京都美術館ミュージアムショップのページにも「震え、戦っていた」が伝染している。

紙の出版物でもdegradeがきっかけの誤情報は発生しうるけど、webの時代は間違いが再生産・流布される速度が段違いだから、なかなか厄介。そういえば「野本さんの後妻」事件というのもあった。今は直っているが、修正まで5年くらいかかったようである。

蛇足だが、もともとは “trembling” の一語だったんだから、「震え戦いていた」に読点を入れて「震え、戦いていた」に変えた加筆もあんまり良い直しではないな。

猫マスク

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ほぼ『レディ・ジェーン・グレイの処刑』。

『レディ・ジェーン・グレイの処刑』
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