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芥川賞

旧聞の消化シリーズ。市川沙央さんの芥川賞受賞コメントをめぐるツイートについて。

市川さんは、障害を持つ人にとっては読書や執筆という行為自体が難しいという「機会をめぐるバリア」について話しているので、数字を持ち出して受賞の確率云々を論じるのがそもそもずれているのだが、この数字自体も怪しいところが自分には気になった。こういうツイートでも1.3万いいねとかに達してしまうのはちょっと。

「重度障害者」という用語には、調べてみると実は統一的な定義は見当たらないのだが、障害者雇用促進法でいう「重度障害者」は、身体障害者手帳の1・2級、もしくは3級で障害が複数ある人(重度身体障害者)、または療育手帳の等級がA(重度)の人(重度知的障害者)となっている。企業の障害者雇用率を計算するときに使う定義がこれ。

重度障害者医療費助成という制度もあり、これは自治体ごとに運用されていて「重度」の定義が自治体によって違う。埼玉県は身体障害者手帳の1〜3級 or 療育手帳のマルA・A・B or 精神障害者保健福祉手帳の1級が対象。

そんな感じで統一的定義がないが、とりあえず各区分の等級ごとの人数は、最新の平成28年の統計で以下の通り。

  • 身体障害者手帳所持者 428.7万人
    • 1級 139.2万人
    • 2級 65.1万人
    • 3級 73.3万人
    • 4級以下・不詳 151.2万人
  • 療育手帳所持者 96.2万人
    • 重度 37.3万人
    • その他 58.9万人
  • 精神障害者保健福祉手帳所持者 84.1万人
    • 1級 13.7万人
    • 2級 45.2万人
    • 3級・不詳 25.2万人

この統計の第7表を見ると、「65歳未満で身体障害者手帳1級」の人数が36.9万人となっているので、上記ツイート主はこの数字を引用したのかもしれないが、これを重度障害者の数とするのは過小すぎる。障害者雇用促進法の定義を援用すれば、(3級で複数の身体障害を持つ人を除いて)少なくとも241.6万人が重度障害者ということになる。統計の対象年である平成28年の日本の人口は1億2693万3000人なので、日本国民の52.5人に1人が重度障害者ということになり、「337人に1人」というツイート主の見積もりは少なすぎる。

また、芥川賞は今回が第169回だが、1回に2人受賞することもあり、受賞者なしという年もあるので、正確に数えるとこれまでの受賞者数は181人となる。

まとめると、日本国民からランダムに1人選んだときに重度障害者である確率は1/52.5もあるのに、今回市川さんは過去181人の受賞者で初の重度障害者ということになり、やはりあと2、3人はすでに重度障害者が受賞していてもおかしくなかったのでは、という話になる。(受賞頻度が有意に低いのかどうかは統計的検定をすればいいのだろうが、よく分からないので割愛。)

蛇足だが、ツイート主の「中央値」の認識も何だか謎(これはリプで突っ込まれている)。「確率 p で起こる事象が初めて起こるまでにかかる試行回数」の分布は、離散的な事象だと思えば幾何分布、連続的な事象(試行回数ではなく、事象が初めて起こるまでの所要時間)だと思えば指数分布というものになる。平均値は 1/p、中央値は (log 2) / p なので、今回のケース (p = 1/52.5) では中央値は約36回となる。181回もかかるというのは平均値からも中央値からもかけ離れている。

市川さんのインタビュー。

例えばATMとか、コンビニのコピー(各種発券)機とか、車椅子だと画面がまったく見えず、使えません。この社会に障害者はいないことになっているので……。

インフラはもちろんとして、高い公共性のある機器やシステム、イベント運営のルールなどは多様な利用者を想定し、テストしながら設計するべきではないかと思います。


「この社会に障害者はいないことになっている」芥川賞・市川沙央が語った10の言葉 | Business Insider Japan

「そういうときは店員が補助します」という建前になっているのだろうが、一人で使える形になっていないこと自体が不平等であるというのはその通り。そこを完全に平等にするには非常にコストがかかるが、「助け合う社会でありたいですよね」というのと「誰かしらが助けてくれるように算段を付けておくからそれで我慢しろ」というのは別の話だしな。

あおぞら

iPhoneのカメラは空の青さを演出しすぎだが、それにしても、自分が子供の頃は、空が青いと感じるのは真冬の乾燥した晴天くらいで、夏の空はいつも白っぽく、こんなに青くなかった気がしている。

空の色に関する長期の調査データというのは見つけられなかったが、大気汚染のデータは環境省にあった。

俺の子供の頃(昭和の終わり)に比べて大気汚染は劇的に改善している。

窒素酸化物 (NOx)。「一般局」というのは一般環境大気測定局、「自排局」というのは自動車排出ガス測定局(主に道路近くに設置)のデータ。

浮遊粒子状物質 (SPM)。10μm以下のダストのことで、2.5μm以下のものは例のPM2.5というやつ。

二酸化硫黄 (SO2)。これは火山ガスの成分でもあり、桜島近くの測定局では噴火があると高く出たりするらしい。

一酸化炭素 (CO)。

昭和の終わりと比べると、どの指標も1/5くらい、一番減っていないNO2でも半分にはなっている。工場や自動車の排ガス規制が厳しくなったのと、HV, EVの普及が大きいのだろう。

子供の頃は車道の横を歩いて登校していたので、登校風景というと車の排ガスの白い色と臭いを思い出す。いすゞエルフやトヨタダイナなどのトラックの排気は特に臭かった。たまに見かけたスバル360も、2ストエンジン特有の強烈な臭いがあった。今の車は排ガスの色なんてほぼ見えないしな。時代とともにいろんなものが悪化していると思いがちだが、環境はすごく良くなっている。

ALPS処理水

の放出が疑義を差し挟む余地もないほど安全であると言える理由について、菊池誠さん(大阪大学教授、物理学)がnoteに書いている。話はこれで尽きている。

最近は、トリチウムの危険性を言い立てるのは無理筋だと反対派の人々もようやく気づいてきたようで、「トリチウム以外の核種が残ってるじゃないか」という方に彼らの主張が移りつつあるように見えるが、そこも全く心配ないことが、これを読めば分かる。

「告示濃度限度比の総和が1未満」という言葉の意味についてもっと知りたい人は、例えば以下のパワポの絵が参考になるかも。字が多い? まあそうですね…。

具体的には、1種類の放射性物質が含まれる水を、生まれてから70歳になるまで毎日約2リットル飲み続けた場合に、平均の線量率が1年あたり1mSv に達する濃度が限度として定められています。この放射性物質ごとの濃度の限度は「告示濃度限度」と呼ばれています。
一般的に、原子力発電所等からの液体・気体廃棄物には複数の放射性物質が含まれています。そこで、複数の放射性物質の影響が考えられる場合には、廃棄物中に含まれるすべての放射性物質による影響を総合して「告示濃度比総和」という考え方が用いられ、この告示濃度比総和が「1」を下回るように規制がおこなわれます。

環境省_放射性物質を環境へ放出する場合の規制基準

どういうわけか「安心したくないし学びたくもない人」というのも世の中にはいるので、そういう人は菊池さんのnoteを読んでも安心しないし、学びもしないだろうな、という諦めもある。しかし、全部放出するにはあと30年かかるらしいが、彼らはあと30年騒ぎ続けるつもりなのだろうか。

いつからか「安全安心」という言葉を一部の人々が好んで使うようになったが、これが良くないと個人的には思っている。「安全性」はいくつもの科学的指標で測定でき、客観的な定義を作れる概念だが、「安心感」は個人の主観や内心の問題なので、そもそも社会全体として追い求めるようなものではないはず。「いやー、お前らがいくら言っても俺は安心できないね!」という人が一人でもいれば永久に終わらないわけだから。だから「安全性の追求」と「安心感の追求」を混ぜたり、セットで語ったりしてはいけないはずなのだが、混ぜたがる人がいる。

そうやって安全と安心を抱き合わせで扱い、科学的に安全性が認められた結果を無視して、学ばない人々の『不安だ』というお気持ちばかりに過剰に寄り添った結果、攻撃されなくていいはずの人が責められたり、無駄な時間と金が浪費されたり、死ななくて良かったはずの人が死んだり、という現象が繰り返されている。BSEの全頭検査とか、豊洲市場用地の汚染問題とか、子宮頸がんワクチンの接種勧奨中止とか、コロナの反ワクチンとか。中世かと。HPVワクチンなんて、存在しないリスクをメディアが煽って政府の接種勧奨が8年間止まった結果、2000〜2003年生まれの日本の女性は、これから約4000人が子宮頸がんで過剰に死亡すると推定されている。ひどい話だ。

ALPS処理水も、風評を恐れて何年も水を抱え込んだ結果、逆に「放出してはならない危険なもの」という迷信を強化してしまった。淡々と放出し、風評の流布には厳罰を以て臨む、TVCMやYouTube動画などで正しい説明を迅速・大量に発信する、といった方法がもっとあったはず。

たぶん、生き物としての生存本能から「恐怖心・不安感」という感情が生まれ、群れを存続させるという集団的な生存本能から「正義感」という感情が出てくるのだと思うが、科学というきわめて効果的な道具を手に入れた近代人は、恐怖心と正義感を持ちすぎない方がいい。恐怖心と正義感を振りかざす人々は必ず殺し合い、結局群れ(人類)は生存できなくなる。もっとみんな適当に生きよう。恐怖心と正義感の代わりになるものが欲しければ、

ミッションちゃんの大冒険 (みっしょんちゃんのだいぼうけん)とは【ピクシブ百科事典】

ロッキング・オンとNHK

来年からRIJFESがひたちなか海浜公園に戻る(蘇我とひたちなかでやる)話を最終日に発表するはずが、NHK水戸がフライング報道してしまった件で、渋谷陽一が怒っている。

来年ロック・イン・ジャパン・フェスティバルは蘇我とひたちなか2箇所で10日間開催されます。

RIJFESはCOVID-19で2020年は中止、2021年は対策をした上での開催を予定していたが、茨城県医師会が中止を要請してこの年も中止。2022年からは千葉市蘇我スポーツ公園に移転して開催された。この蘇我移転を決めた際にもNHK水戸がフライング報道しようとして、それはやめてくれとロッキング・オンが申し入れてフライングはされなかったものの、NHK水戸のデスクがそのことへの意趣返しとして今回フライングを強行したのでは、という渋谷氏の想像が語られている。

数日後には公式発表されるであろう、そこまで速報にニュースバリューがあるとも思えないネタを、新聞・テレビがフライング報道して公式発表を台無しにする、という場面は、私の短いライター経験の中でも目にしたことがある。オールドメディアの価値観はあまり理解できないのだが、他社より1秒でも早く報じたいという商売上の動機と、「これは国民の「知る権利」の行使であり、そのために送り手と受け手のお楽しみが壊れようが知ったことではない」という「暴力的な正義感」が彼らの行動原理にある、とは感じている。

現実の作法としては、フライング報道して欲しくないネタは報道解禁日時を設定した上でプレスリリースをメディアに配布するのが普通だと思うが、今回ロッキング・オンは明示的に報道解禁日時を設定していたわけではないようである。(ITmediaの報道で当初「解禁日時を設定していた」としていたのが後に訂正されたところを見ると、文書での明示的な解禁日時の設定はなかったように見える。)

【修正履歴:8月10日午後7時45分 掲載当初、開催場所の発表について解禁日時の設定があったと記載していましたが、外部からの指摘を受け再度確認し、事実に基づいて記述を修正しました】

ロッキン、NHK報道に抗議 「約束を台無しにするリーク報道は迷惑」 総合Pが怒りの声明【修正あり】 – ITmedia NEWS

まあとりあえず、今回のことだけを見るとNHKひどいなと思うわけだが、一方で、自分たちの論理を押し付けてきたという意味ではロッキング・オンもたいがいひどい、という話も思い出した。

ロッキング・オンは自社の雑誌で取材対象者にゲラのチェックをさせないという話がある。メディアは取材対象者の広報機関ではなく、メディア側に編集権というものがあるので、自由権の一種としてゲラを事前チェックさせない権利があるというのは分からなくもないのだが、「載せてやるから金払え」という実質的な記事広告であってもチェックをさせないという証言がある。

掟 そういえばロッキンオンっていうクソ雑誌があるんですけど、あいつら広告費でページを買わせるくせに原稿の直しには一切応じないんですよ。以前ロマンポルシェ。でインタビューを受けたんですが、取材に来たのが学生あがりみたいなアンちゃんで話全然理解出来てないし、写真撮影は使い捨てに毛が生えた程度のカメラでやってるしで、あきらかにナメられて。どんな記事になるのかすごく心配だったので、ゲラ(※入校前の原稿のこと)がどうなったか当時のマネージャーが編集部に電話したんです。そしたら「うちはゲラチェックとか基本的にやってないんで」、「うちは尾崎がゲラチェックさせろって時もさせませんでしたから」って、平然と言われたらしくて。いやいやいや、お前ら今、尾崎豊が俺達よりも遥かに上の人みたいに言ってるけど、俺は尾崎より自分を下だと思ったことはないし、第一そんなもん理由になんねえから。ふざけた会社だなと。それ以来、ロッキンオンの印象と共に、尾崎豊の印象も悪くなったんです。その時の怒りがすべて尾崎豊に行っちゃったんですね。尾崎ファンの皆さんすいません。これはすべてロッキンオンが悪い!

ロマンポルシェ。(’10年4月号) – インタビュー | Rooftop

こういうのを思い返すと、これまでさんざん「取材者の論理(正義)」を押し付けてきたロッキング・オンが、いざ自分たちが取材される側に回った途端に「取材者の論理(正義)という横暴」を非難するというのは、なんだかなぁ、と鼻白む感がなくもない。

なお、自分のお付き合いのある雑誌では、取材者にゲラをチェックしてもらうのは普通にやっている。事実誤認や取材者(私)の誤解があるかもしれないし。ただ、事前チェックはしてもらった上で、最終誌面をどういう文言にするかは編集部が権限を持っている。そんな感じです。

達郎

「サンデーソングブック」を聴く。radikoタイムフリーで来週まで聴取可能。そのうち文字起こしも出回るだろう。

まとめれば、「自己正当化」に終始するコメントという印象。自分はこの問題にさほどの思い入れはないが、彼の談話は今の時代の空気からはずいぶんずれている、とは感じた。

好意的に解釈すれば、「一次情報でない噂や憶測に基づいて何かを判断することはしない」意思の表明だという読み取り方もできるが、「私は一次情報(または自分が直接見聞きしたこと)しか信じない」というのは、一見公平な姿勢のようでいて、見て見ぬふりをしたい人の口実としてもしばしば使われる、まあ後ろ向きな言葉ですよね。外ヅラの良い悪党にとっては、こういう謎のピュアさを出してくる人間は、あれこれ詮索をしてこずに「良いお付き合い」ができる格好の友人になるだろう。

今回の問題の文脈で、自分がいかに若い頃からジャニー氏の生み出すものに憧れ、彼との「縁とご恩」を大事にしてきたかに言及するというのも、心情はその通りなのかもしれないが、よりによってこのタイミングで持ち出すのは筋が悪すぎるなーと思った。

もうとっくに成人していると思うが、達郎・まりや夫妻には娘さんがいたはずで、ジャニー氏の性加害を受けてきた子たちもみんなどこかの親御さんたちの大事な子供だったはず、とか考えると、今回の「スピーチ」と同じことを達郎氏は自分の娘さんの目の前でも言えるのだろうか、とはちょっと思う。

番組で彼が流した昔の彼の曲はやはり、いい曲だった。アウトプットは素晴らしいが人としては最悪、という人は世の中に本当にたくさんいて、ああ、あの人もそうだった、この人もそうだ、と気づいて失望を重ねていくことがすなわち人生なのである、という気もする。自分もきっといろんな人から失望されているんだろう。生きていてすみません。

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