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タモリ倶楽部終了

3月末までとの報。

タモリが辞めたいと言ったのか、局の方針なのか、よく分からないが、残念。

数年前から、「空耳アワー」で安斎さんとタモリがどうでもいいことを話す冒頭のトークがなくなった。あの雑談をただの無駄だとしか思わない人が番組に関わるようになったのかと、がっかりしていた。もっと空耳の紹介に時間を割きましょうとか、あそこで瞬間視聴率が下がるのでやめましょうとか、そんな理由しか思い付かないが、愚行である。

大して意味のない、あの雑談みたいな無駄が無駄とされずに存在できていることこそが、あの番組の価値だったはず。文化や教養というのは全て無駄なもので、なくても困らない。だからこそ、なくしてはいけなくて、人間が人間であるために必要な無駄なのだ、というのは、普通の教育を受けた人なら全員理解しているはずだと思うのだが。

あの番組自体がテレ朝の番組編成の中でいわば「文化・教養としての無駄」を担っていたわけで、今さらあの時間帯に「ただのバラエティ番組」をやってどうするんだ。いや、後番組が何になるのか知らんけど。「文化としての無駄」は決して「役割を終えた」りはしない。人間が人間である限り、ずっと必要なもののはず。

「タモリ倶楽部」の番組ロゴには “FOR THE SOPHISTICATED PEOPLE” と書かれている。残念ながら、テレ朝にはもうSOPHISTICATED PEOPLEはいないのだろう。

番組が終わった後、安斎さんが食っていけるかが心配、「考えるヒット」も終わっちゃったし、と思ったが、意外といろいろ仕事をされていて安心した(すごい失礼)。

自給自足生活

「真相報道バンキシャ!」で、地球に優しいとか SDGs とかがテーマのお話をやっており、親が見ていたので俺も何となく見ていたら、青森で自給自足生活をしている一家というのが出てきた。よくテレビの取材も受けている有名な一家らしい。

電気ガス水道契約してません、自給自足してます、ということらしく、まあ好きなように生きればいいと思うが、いろいろ首をかしげるところもあった。

自給自足と言いつつ、文明否定というわけでもないらしい。電気も車も PC も使っている。自給自足生活のレクチャーをして現金収入も得ているようだ。電気はソーラーパネルで発電してバッテリーに蓄電していた。

自宅は建築廃材を使って DIY で建てたという。煮炊きの燃料も廃材らしい。「自分の生活のために、生きてる木を切りたくない」みたいなことをおっしゃっていた。いやいや、あなた方は廃材を使えば木を切らずに済むかもしれんが、その廃材はもともと、他の誰かが木を切って生じたもので、この一家はそれにタダ乗りしているだけだ。全員が彼らと同じ生活を始めて誰も木を切らなければ、廃材はどこからも出てこなくなる。そのへん、どう考えているのかいまいち謎。

水は湧き水を使っているが、周囲の田畑にまかれる化学肥料のせいで硝酸性窒素が基準値を超えていて飲めないので、飲用水は別の湧水まで車で汲みに行っていた。身近に出る湧き水が化学肥料のせいで飲めなくなるのはどうなんだ、みたいなことも言っていた。まあ気持ちは分からなくもないが、化学肥料のおかげで人類の食糧生産力は飛躍的に上がり、多くの人口が飢えから解放されたという歴史がある。ハーバー・ボッシュ法は凄いんですよ。化学肥料がなくなれば、飢饉であっさり餓死したり娘を売ったり子供を間引いたりする時代に戻るだけだが、彼らがそのへんをどう考えているのかも謎。

トイレの糞尿は堆肥にして自分の畑の肥料にしていた。その堆肥も雨が降れば地下に染みこんで、お前らの大小便で地下水が大腸菌やら硝酸性窒素で汚染されるわけだが、それはいいのか。あと、糞尿で作物を作ると必然的に寄生虫感染のリスクが増えるよね。みんな回虫持ちになるけどいいのかしら。

「俺たちは地球に優しく生きたい」と言いつつ、高度なテクノロジーのなかった時代がどれほど人間にとって苛酷だったかを学ぶこともせず、「地球に優しくない」人たちのおこぼれにタダ乗りしながらファッション的に自給自足を演じてる感じが、非常にもやもやした。

Nスペ『数学者は宇宙をつなげるか』への望月氏の感想

が望月氏の blog に投稿されている。

まとめれば、

  • 米国時代の望月氏の境遇に関する記述が不正確
  • IUTが同型性をどう扱っているかという説明(アナロジー)が不正確
  • Faltings, Dupuy の談話に対する意見

といったところ。

望月氏本人がはなから NHK の取材を拒否している状況で、でき上がったものに対して後から「あれが違うこれが違う」と言われるのは、作り手側からすると「勘弁してくれ」「だったら取材対応してよ」とは思うだろうな、と少し NHK に同情する。

テクニカルな部分の正確性は、監修者を置くことで担保するのが普通。この番組はエンドクレジットを見る限り、「監修」は置いておらず、「取材協力」として加藤文元・玉川安騎男・星裕一郎・小山信也およびソルボンヌ大・マックスプランク数学研がクレジットされている。

題材がここまで高度に専門的な場合は、やはり監修者を置いて、制作の早い段階から継続的にチェックしてもらうべきだろうとは思う。監修を頼んでも引き受け手がいなかったとか、数学コミュニティの中で IUT の評価が定まっていない状況で、中立的な監修者を置くことが不可能だったとか、いろいろ事情はあるのかもしれない。

4/24 BSフジ「ガリレオX」

古巣のプロジェクトX的な話、になるのかな。

2022年4月24日(日) 13:35~14:04
第265回「GRAPE 天文学を変えた計算機」

2022年5月1日(日) 11:30~12:00(再)
毎週(日) 11:30~12:00 ※隔週新作

 2022年3月末。国立天文台のコンピュータ室で、ある計算機がその役割を終え運用終了した。その名はGRAPE(グレープ)。宇宙に散らばる様々な天体の進化を、重力の計算によってさぐる天文学専用計算機だった。1989年に誕生したGRAPEはセンセーションを巻き起こした。当時、スーパーコンピュータの開発は数百億円もの費用をかけて進められていたが、GRAPEの開発費はわずか20万円。しかも天文学者による手作りだった。その後、GRAPEはその驚異的な計算能力によって天文学の重要な謎を解明し、様々な成果を挙げていく。
 コンピュータの専門家ではない天文学者たちは、いかにしてGRAPEを作り上げたのか?日本の天文学に大きな礎を築いた手作りコンピュータの物語を綴る。

BS 見られないんですが…どっかの配信で見られるかな。

“Can Mathematicians Connect the Universe?” Full Version

I watched it on NHK On Demand. 220 yen.

The story is much the same as the 60-minutes version I saw the other day, but the addition of the story about Scholze and Faltings not being happy about the “popularization” of the disturbance that has spread outside of the mathematical community is significant.
Faltings explained on Scholze’s behalf why he did not agree to be interviewed this time.

Some screenshots of the comments on Peter Woit’s blog were quoted along with the narration, “Since the Mochizuki and Scholze seminar in Kyoto in March 2018, there has been an increase in online slander (against the Mochizuki camp).”

  • The comment saying “… should ignore what is coming out of Kyoto,” is this.
  • The comment that calls Mochizuki’s proof “a hoax” is this.

However, the second comment was written on December 17, 2017, before the seminar, so it is not an example of “increased slander after the seminar”. TV shows, as usual, tell these little lies, thinking they won’t be found out anyway.

Anyway, Faltings said that Scholze decided not to get involved when he saw these amateurs who had never read the paper criticizing Mochizuki in ugly terms. I can understand that feeling.

On the other hand, however, the fact is that Mochizuki himself and others in the Mochizuki camp, such as Ivan Fesenko, have also continued to heap ridicule and disrespect on Scholze-Stix. It is not fair that the program does not mention this point. I have written in the past about how Mochizuki’s group has described and treated Scholze-Stix.

If there is one thing that can be appreciated in this full version documentary, it is the statement by Fumiharu Kato, an evangelist in Mochizuki’s camp, that “There are parts of the IUT that are not yet fully in the language of mathematics. We must create a new language system as soon as possible.” It is important that a member of Mochizuki’s group acknowledges that the IUT contains unfinished parts.

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