• (2025/09/01 追記)ABC予想・IUTが話題になるたびにここを訪問される方が一時的に増えるようで、お読みいただきありがとうございます。

    過去に書いた一連のものはタグ「abc」でまとめて読めますので、適宜ご参照ください。

    この記事は2024年4月に書かれたもののため、内容が古い可能性があります。


    数学としてはどうやらハズレらしいと判断して以来、あまり追いかけていなかったが、朝日新聞にまた違和感のある意見記事が載っており、そういえば最近どうなってるんだろう、と思い出した。

    IUT論文が恐れられているとは寡聞にして知らなかった。有料部分も読んだが、議論が膠着しているという主張や、望月氏は芸能ネタもいける親しみやすい人柄であるというどうでもいい情報、川上量生氏による例の賞金の話(後述)など。新しい話は特にない。

    一連の問題について自分が以前に書いたものは、タグ「abc」で読める。

    これまで書いたことの繰り返しになるが、IUTが著しく評判を落とし、見捨てられた理由は大きく2つある。数学としての問題と、望月氏及び周辺の人々の学問的誠実性の問題。数学コミュニティから見放された本質的理由は後者にあると自分は思うが、石倉記者をはじめ、IUTに大きな期待を寄せているらしいピュアな人たちは、前者の問題には言及しても、後者の問題にはなぜか全く触れない。

    数学としての問題

    以下の点に尽きる。

    • 2017年12月、Peter Scholze(ボン大学)という数論幾何学の専門家によって、2012年に望月氏の web サイト上で公開されていた望月論文の「系3.12」という核心部分に致命的な問題があることが指摘された。同じ時期に、海外の数学者の web サイトやメールでの議論で、他にも数人の数学者が独立に、系3.12に論理のギャップがあることを指摘している (cf. Aberdein 2022, Table 1)。
    • 2018年3月、Scholze と Jakob Stix(フランクフルト大学)はわざわざ来日して京大の望月氏を訪れ、1週間にわたって直接議論したが、望月氏側は系3.12に問題があることを認めず、議論は平行線に終わった。

    欧州数学会他が運営する世界的な数学文献データベース「zbMATH Open」でも、望月論文にはScholzeによるレビューが付いており、ABC予想を証明したという論文の主張は明白に否定されている。これに代表されるように、望月グループの外では望月論文は否定的に受け止められている。

    学問上の誠実性の問題

    とは、以下のようなこと。

    • 望月氏は Scholze, Stix の指摘を論文中で全く引用せず、査読チームも両氏の指摘を論文内で引用するよう求めることなく、完全に「なかったこと」にして2020年に論文を受理し、2021年に出版してしまった。
    • 論文を出版した雑誌は、望月氏の所属機関である京大数理研の雑誌「PRIMS」であり、望月氏自身がこの雑誌の編集委員長に就いている。つまり、内輪の雑誌に投稿し、望月氏のお仲間が査読し、通すという実質的な自作自演になっている。(望月氏自身はこの論文に関しては編集の職務から外れているとのことだが、査読チームが忖度しないわけがないと考えるのが普通だろう。)
    • 望月氏はメインのIUTの論文と併せて、IUT関連のレポート・論文などを随時自分のwebサイトで公開しているが、それらの文書の中で一貫して Scholze, Stix の名前を出さず、「RCS(redundant copies school; 冗長コピー学派)」という嘲笑を込めた呼び名で呼び続け、文献リストでも両氏のレポートを引用していない。例えばこれ。適切に文献を引用しないということは、そういう議論があったことを後世の人間が書誌情報から追えなくなるということである。
    • IUTの正しさに大きな疑問が投げかけられている状況を無視して、京都大学が2019年に数理研の下に「次世代幾何学研究センター」なる機関を設立し、望月氏をセンター長に据えた。(2022年に量子幾何学研究センターと統合して「次世代幾何学国際センター」に改組。センター長は変わらず望月氏。)

    最近の動き

    書こうと思って忘れていた件などいろいろ。

    ●「ZEN大学」に「宇宙際幾何学センター」設置

    ZEN大学はドワンゴ創業者の川上量生氏が設立しようとしているオンライン大学。まだ存在しない大学に研究拠点の設置もクソもないのだが、所長が加藤文元(元東京工業大学)、副所長が Ivan Fesenko(西湖大学)。もちろん望月グループの人たちである。

    (2025/09/01 追記)その後、ZEN大学は2025年4月に正式に開学した。当初言われていた「宇宙際幾何学センター」は開学前に「ZEN数学センター (ZMC)」に改称された上で設置された。詳しくは下記へ。

    併せて、IUTの発展に寄与した研究者に贈る賞を創設したとのこと。

    IUT Innovator Prize と IUT Challenger Prize があり、第1回の Innovator Prize は望月など5名による2022年の論文に贈られた。一応、Fesenkoは賞金を辞退したので、4名に10万ドル贈られる(10万ドルずつではなく、10万ドルを4分割なのかな)。

    こういうのを普通は「お手盛り」というのだろう。IUT一派がカワンゴから金を引っぱって自分たちの懐に入れるためのスキームにしか見えない。この人たち、本当に研究者なんでしょうか?

    上で挙げた学問上の誠実性の問題を放置したまま、望月氏のグループがIUTのアウトリーチという名目でこういう生臭いことばかりやっているのを、海外の数学コミュニティの人々はちゃんと見ている。以下の Peter Woit 氏(コロンビア大学、数理物理学)のブログエントリのコメント欄には数学者や数学専攻の学生と思われる読者が常時多数のコメントを寄せており、このエントリにも望月や彼の仲間の言動に対する失望、悲しみ、怒り、憐れみなどが書き込まれている。

    ●独立の研究者による仕事

    望月論文は無駄に長く、無駄に珍奇な概念ばかり振り回して読みづらいこと山の如しなので、もう少し既存の数学の言語で書き直してみよう、という試みをしている研究者が数人いる。

    その一人である Kirti Joshi(アリゾナ大学)が3月末に、既存の数論幾何の枠組みを使い、望月の系3.12のギャップを埋めて改めてABC予想を証明したと主張する論文を発表した。

    これについては Scholze が MathOverflow のコメントで、Joshi の証明に明らかにおかしい箇所があると指摘している

    一方、望月も自分の web サイトで Joshi 論文を否定する文章を公開している。奇しくも、IUT で対立している Scholze と望月の両方から否定された形。

    MO での Scholze の指摘は穏やかだが、望月の文章は相変わらず太字と斜体を多用して相手を口汚くこき下ろす文体。「Joshi論文はまるで ChatGPT のハルシネーションのようだ」とか何とか。

    Joshi の論文で重要な定理の番号がたまたま「定理 9.11.xx」となっていることを取り上げて、「”9.11″ なのは偶然なのか、それともある種のレトリックかユーモアなのか」などと心ないイジりをしている箇所もある。

    [where we note that it is not clear whether or not the number “9.11…” assigned by the author to these key results in [CnstIII] was purely coincidental or a consequence of some sort of sense of rhetoric or humor that lies beyond my understanding].

    REPORT ON THE RECENT SERIES OF PREPRINTS BY K. JOSHI, Shinichi Mochizuki, March 2024

    逆のケースを考えてみれば分かるが、日本人が書いた論文への反論に、「ところで君のここの定理番号が 8.6 なのは原爆投下の日付と同じだけど、なんか意味があるのかな」みたいな冗談が混ざっていたら、果たしてどう思われるだろう。

    まあ望月氏はこういう人なのだと言えばそれまでだが、科学的議論の場に平気でこういう物言いを混ぜ込む態度が、彼の仕事を真剣に評価する気持ちを萎えさせ、IUTが見捨てられる一因になっている。

    IUTを救いたいのなら(今から救えるとも思えないが)、いい加減気づいた方が良いのではないか。本当に、望月氏とその取り巻きグループにはさまざまなレベルでの不誠実が多すぎる。そこから目をそらし、「IUT スゴイ! 日本スゴイ! 海外の連中には難解すぎて凄さが分からないんだって!」とか「無視せずもっと議論すべき」みたいな薄っぺらいことを取り巻きやファン連中が言ってもね、まともな人たちはもう見透かして冷めきってるわけですよ。

  • 数か月前からUIが変わってしまって使いづらい。仕事でPDFファイルに線を描いたりテキストを書き込んだりすることが多いが、新UIは旧UIに比べて、同じ操作をするのにステップがかなり増えてしまっていて、いちいちストレスを感じていた。

    …と思ったら、[表示]-[新しい Acrobat Reader を無効にする] で旧UIに戻せることが判明。うわー。俺の数か月を返してください。

    上で書いたような作業をするには旧UIの方がずっとやりやすい。助かった。

    夜ウォーキングで夜桜を撮る。まだ散っていない。

  • 長年使っていたやつをついに買い替え。Buffalo の WHR-HP-G300N というやつで、いつ買ったのか覚えていないが、2009年発売の製品らしい。

    元々は ADSL モデムにつないでいたが、光回線にしたときにメインのルーターとしては退役させ、2階専用にAPモードで使っていた。最近いよいよ不調になってきたのと、光回線の事業者変更をするにあたってOCNバーチャルコネクト (IPoE) 非対応のルーターは使えなくなりますよと言われたので、捨てることにした。今までありがとう。後継機は Buffalo WSR-1800AX4P。Buffalo ばかり使っている。

    買い物のときにビックカメラのポイントカードを出したらバキバキに割れていた。財布の中で尻の圧力を長年受け続け、破壊したようだ。裏に (9909) と印刷されているが、1999年9月に作ったものだろうか。もしそうなら25年物。今後はスマホアプリを使うことに。

    そういえばヨドバシのカードも数年前に交換した。バーコードが摩耗して読めなくなったんだったか。これもアプリに替えるか。その方が財布が薄くなって良い。

  • 4/6、映画を見た後、池袋で買い物。秋葉原に移動して買い物。

    春になると冷たい蕎麦を食べたくなる。秋葉原の嵯峨谷は行列ができていたので諦め。神田明神下にスコア4点台の蕎麦屋があると知り、明神下までてくてく歩いて「おしん」というお店へ。

    大衆店ではなくわりと高級店。たまにはいいだろうと入店してかき揚げせいろそばを食べた。そうめん並みに細く切った十割蕎麦で美味かった。ただし量はお上品。蕎麦粉は日によって変わるらしい。かき揚げも、ぷりぷりの小エビが具のほぼ全てを占める贅沢なものだった。

    蕎麦湯がポタージュのように濃くて驚いた。蕎麦のゆで汁というより、改めて蕎麦粉を溶いて煮てるんじゃないかと思うくらい。蕎麦が少なめな分、蕎麦湯で満腹感を補えてちょうどよい。

    で、やはりもの足りないのでケーキでも食べたいと思い、喫茶店を目指して移動。神田明神まで来たのでまずお詣り。門前の桜が咲いていた。

    電線を避けた構図にできないところに、自分の詰めの甘さを感じる。

    土曜なのでわりとお詣りの人がいて、「真ん中は神様が通る道だから通らないように」と子供に注意しているお母さんがいたりした。毎回言ってるけど、それって平成以降に出現した嘘マナーじゃないの? と思う。自分の記憶では、昭和の頃にそんなことを言ってる人はいなかったと思うのだが。「正中」の話が正しいなら、鎌倉の鶴岡八幡宮の参道なんか歩けないじゃん。あれだって二の鳥居の内側なんだから。人間が歩かないものをわざわざあんな長距離整備しないだろう。そもそも神道の神って本殿より奥(の天上)にいて、必要に応じて降りてくる的な設定なんでしょう。三輪山信仰なんて背景の山が御神体だったりするわけで。神様が神社の下手から参道を歩いて来たりはしないわけですよ。ほんと、このマナーに関しては全く納得がいっていない。

    二拝二拍手一拝も、昭和の頃にそんなのやってる人がいた記憶がない。神主でもない庶民の参拝客がそこまでやる必要はないと思っている。そこまでやるなら拝殿にお尻を向けずに後ずさりしながら帰らないと神様に失礼でしょう。論理のバランスが取れてないと思うわけです。

    俺の感覚とほぼ同じことを書いている人がいた。

    お詣りを終えて、門前の喫茶店「乙コーヒー」でブレンドとチーズケーキのセットを食す。雰囲気が良い。コーヒーはもう少し酸味がない方が好み。

  • 4/6、@グランドシネマサンシャイン池袋。IMAX レーザーGT(謎)の方で観た。最上階なので見晴らしが素晴らしい。朝一の 08:20- の回にした。何しろ長いので、後の回にすると観劇後に何かする予定を入れられなくなる。

    IMAX で日本最大とかいうスクリーンだったらしい。あいにく後ろの席が売り切れていたので4列目を購入したが、やはり日を変えてでも、もっと後ろが良かったかも。前の席だとビルの外壁を見上げるような感じで、被写体のパースがよく分からなくなり、字幕ばかりが大きく視野を占める状態になる。

    以下ネタバレあり。

    20世紀半ばのスター物理学者がたくさん登場するので、前半のマンハッタン計画までの話は「これが誰それか」「この人は本物に似てる」「この人は似てない」といちいち考えながら観るのが面白い。キリアン・マーフィーのオッペンハイマーとマット・デイモンのグローブズ准将はすごく似てた。エドワード・テラーも雰囲気はよく似てる。ボーアは全然似てなかった。アインシュタインも大して似ていないが、あの髪型と口髭があればまあアインシュタインにはなる。ハンス・ベーテは禿げの俳優がやっていたので、最初の方はフェルミだと勘違いした。マンハッタン計画時代の写真を見ても、ベーテはそこまで禿げてはいない。

    フェルミはシカゴ大で史上初の原子炉 CP-1 を作って臨界を達成した後、1944年9月以降はロスアラモスにいたらしいが、映画では CP-1 のシーン以降、全然出てこなかった気がする。

    ジョン・フォン・ノイマンも全然出てこないのが不思議だった。映画のオールキャストを見てもフォン・ノイマンはいない。彼が爆縮レンズの計算をやり遂げたおかげでプルトニウム原爆が実現したことは有名。まあ実際、彼はロスアラモスに常駐ではなく、ふだんはワシントンにいてたまにロスアラモスに来る感じだったらしい。科学史としてはフォン・ノイマンに言及しないのはありえないが、映画はあくまでもオッペンハイマーの話なのでそこは削ったということか。WW2とそれ以降のフォン・ノイマンの仕事については以下の記事に詳しい。

    リチャード・ファインマンは当時若手で、劇中でも名前が出るシーンは特になかったが、パーティーでやたらボンゴを叩いていたのと、トリニティのときに車のフロントガラス越しに見れば紫外線を避けられるからサングラス要らねぇ、と言ってた人物がたぶんファインマンですね。『ご冗談でしょう、ファインマンさん』にその回想が出てくる。

    全体的に、科学史だけの映画というわけでもないので、科学の話を見たい人は少し物足りなさを感じ、そういう話を知らない人は情報量の多さに置いてけぼりにされそう。自分が監督なら、例えばアーネスト・ローレンスの登場シーンで「西部警察」のOPのようにいったん映像を止めて、彼は当時の米国の実験物理のエースで、現代の粒子加速器の原型となるサイクロトロンを発明してノーベル賞をとって素粒子実験物理を開拓した人で、アクチノイドの一番後ろの103番元素ローレンシウムに彼の名前が付いているよ、というような補足説明をいちいちしたくなるが、実際には研究室でトンテンカンテンやっているローレンスが出てきて、二言三言会話するだけで話がどんどん進んでいくという具合。いちいち映像を止めて蘊蓄を入れていく上映会みたいなのをサイエンスカフェで観てみたい。

    CGを使わないノーランの映像は素晴らしかったが、トリニティ実験の火球の再現は正直言ってちょっとしょぼさを感じた。やはり所詮は化学的な燃焼だなぁという感じ。ただ、我々が後世の水爆実験の映像などを見慣れているせいで脳内のイメージがインフレしすぎているのかもしれない。トリニティ・広島・長崎の出力は10-20ktなので、水爆のようではないはず。映画を見た後でトリニティ実験の記録映像↓を見ると、それほど悪くなかった気もしてきた。

    この映像には比較するものが映っていないので距離感が分かりづらいが、爆心から9kmの位置から撮影されたと書かれているので、東京駅で起きた爆発を中野駅から眺めるくらいの距離になる。そう考えるとこの火球のサイズはやはりとんでもないし、そんな広大な面積にわたって平らな砂漠が広がっている米国は凄い。

    後半の赤狩り時代の話は重くて救いがなくて、そこが良かった。敵役のルイス・ストロースAEC委員長が送り込んだ弁護士たちがオッペンハイマーの親ソ的言動や行動の矛盾を激詰めするときに発せられる質問は、もちろん一個人に責任を負わせるべき話でもないのだが、ある面では真理を突いていて、派生して答の出ないたくさんの問いを観客の頭に去来させる。ナチスドイツに先んじるための原爆開発はOKで、ソ連に先んじるための水爆開発はなぜダメなのか、ナチスが降伏して目的を失ったのに開発を続けて日本に落としたのは正義なのか、早く終戦させて犠牲者を減らすために大量殺戮をするという論理はありなのか、大国だけが核を保有してオープンに管理するという理想は本当に理想なのか、などなど。今、ロシアが安保理常任理事国でありながら核恫喝をちらつかせて侵略戦争を続けていたり、1000人殺された報復に3万人殺しているイスラエルの状況があったりするが、これらの話をどうすればいいのかという今の私たちの問題が、どうしても頭に浮かぶ。

    広島・長崎に関する言及や描写は、少なくとも作中に登場した数字に過小な感じはなかった。ストライプの服を着ていた人はストライプの模様通りに火傷を負った、爆風を避けられて喜んだ人々が数週間後に死んでいった、といった会話は、日本人の感覚からするとまだ生ぬるく、それを被害の全部だと思わないで欲しいとは思うが、当時の米国人同士の会話だと思えばまあそんなところかも。実験成功後の祝賀会でオッペンハイマーが怖ろしい幻想を見るシーンあたりにノーランの意思は表れている。この内容なら、日本での上映をためらうこともなかったのでは、と思うが、どうなんだろう。

    全体的に、分かりやすい善人や悪人が一人も出てこなくて、オッペンハイマーを含め、みんなそれぞれ善良さと胸糞悪い部分を持っているのがリアルで良かった。最近、良かった映画はだいたい2回以上観ているので、これも多分もう一度観に行く。スルーしたところを見直したい。