• メッセージの予告。東京ドーム 2days の前日に告知があるとのこと。

    すべてのSNSと、ファンクラブ向けのメールでも同じ文面が届いた。過去になかったことなのでファンダムがざわついている。

    「巡ループ」のMVが終わりを暗示させる内容だったこともあって心配の声も聞かれるが、「音楽と人」やナタリーのインタビューを読んだ限りでは、解散ではないと思う。

    あ〜ちゃん曰く、

    「ありがたいです。でももういい大人だし、そろそろいろいろ変わってみても、いいよね?って、何年も前から言ってることだけどね。だからその変化していく私たちも楽しんでほしいなって思ってます。Perfumeはもう人生だから、3人がいる限り終わることはない。でも同じ形で一生やっていくことは、たぶん難しいから」
    ——少しずつ、変えながらね。
    「それも、Perfumeを終わらせないためにやってることだから。これからも、いろいろな決断がありますよ、きっと」

    「音楽と人」2025年9月号 p14

    かしゆか曰く、

    ——まだまだPerfumeとしてやりたいことがある、と。
    「うん。やっぱりみんな、好きなものがなくなったり、終わることへの恐怖心ってすごいんですね。私はそういうことに執着がないから『変わらないでいてね』って言われると、びっくりしちゃうんですよね。だって、〈変わらないものなんて絶対ないじゃん〉って思ってるから」

    「だからみんな、変わることを恐れないでほしい。変わっていくのが人だし、変わっていくからこそ過去が輝くかもしれないし、自分が出会った瞬間がもっと特別になるかもしれないし、変わるから変わらないでいれるものもあるかもしれない。Perfumeをそうやって楽しんでほしいなって思います」

    「音楽と人」2025年9月号 p17

    のっち曰く、

    ——違う人でやってみたら面白いかも、って声がメンバーから出てきたことってあるの?
    「ないです。やっぱりいまだに、中田さんとMIKIKO先生とやったら面白いと思うので。ただ、自分で詞を、って話が出たことはあります。そのお話はなくなりましたけど」
    ——でも、それがほんとに面白いねって言えるんだったら、チャレンジしてもいいんじゃないか、って気持ちがある、と。
    「ありますね。でも、何がイケてるかって考えたら、やっぱりPerfumeは、中田さん、MIKIKO先生、3人で作り続けるのが一番イケてるよなって思うから」

    「音楽と人」2025年9月号 p20


    これを読む限り、Perfumeはやめないし、3人の体制も変えないし、中田ヤスタカ・MIKIKO先生以外の人と組むという話でもなさそう。ただ、何らかの「変化」があることはかなり確定的に仄めかしている。

    巷では結婚・産休という説もあるが、「30歳になった時点で、もうその選択肢は考えていなかった」と過去に語っているので、今さらそれもなさそう。ただしもっと若い頃には、「結婚するときは3人同時にする」「誰かが相手を見つけたら残りの2人も急いで見つける」と言っていたことはある。

    …という傍証の数々から考えると、

    • アミューズからの移籍または独立
    • もっさんがチーフマネージャーから外れる
    • ついに髪型を変える

    くらいしか思い付かない。レコード会社の移籍は過去にやっている(徳間ジャパン → ユニバーサル)し、そのときはこんな大々的な告知はなかった。

    一つ気になるのは、今回の「ネビュラロマンス前篇/後篇」の制作に当たって、中田ヤスタカが作詞作曲に専念し、レコーディングを初めて他の人に任せたという話。中田先生は「全部自分でやりたい」「自分で作ってしょぼいものになるリスクよりも、他人の手が入って自分好みでない部分が混ざることの方が嫌だ」と常々言っていた人で、録音からマスタリングまで全て独りでやってきた。初期の曲で木の子さんが作詞者だったのを全曲自作詞に変えたのもその一環だったはず。

    なので、「ネビュラ」でレコーディングディレクターを入れたという話にはかなり驚いた。「音楽と人」でののっちの話に基づけば、今後も中田氏の曲でやるという体制には変わりがなさそうなのだが、どうも「変化」は中田氏関連の何かであるような気がする。「巡ループ」のMVで3人が倒した科学者カキモトが中田氏をモデルにしているように見えるのも、そう考える理由の一つ。

    7/31のNHK「SONGS」に出たときに、大変異例なことに中田ヤスタカからのメッセージが紹介されたが、その中で「これからも一緒にやっていきましょう」的な言葉が何もなかったのにも違和感を感じていた。完全に手を離れるわけではなくても、何らかの意味で「中田ヤスタカからの卒業」があるのではないか。

    うーん、分からん。

  • 皆既月食の色がなぜか決まり文句のように「赤銅色」と形容される件について。

    川村晶さんのツイート。

    自分はいつも、「白い小皿に出した醤油の色」に似てるなと思っている。もしくはイクラ。

    「赤銅(しゃくどう)」は銅に金を数%混ぜた合金のことで、昔から金属工芸でよく使われる。そのままだと銅と大差ない色だが、銅イオンの水溶液で煮沸する「煮色」という工程を経ると、酸化皮膜ができて紫や黒に近い色になるらしい。

    皆既月食を「赤銅色」と呼ぶ風習はどこから始まったのか、国立国会図書館サーチで「月食 赤銅色」「月蝕 赤銅色」などで検索してみた。こういう調べものを家でできるのは、インターネットと文献の電子化のおかげ。良い時代。

    国会図書館デジタルコレクションで見つかる一番古い文献は、1900年(明治33年)の『星学』という本だった。百科事典の中の一冊らしい。皆既月食の説明の中に「赤銅色」が登場する。

    …然るに其の全く蝕するに及んでも月は全く闇黒となるにあらず、尚ほ赤銅色の光を放つ。…

    須藤伝次郎 著『星学』,博文館,明33.12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/831010 (参照 2025-09-18)

    1906年(明治39年)の『言文一致文範』という本には、おそらく言文一致体の文例として、小森松風という人が書いた「田園日記」という日記文の一部が引用されており、月食を見たという記述の中に「赤銅色」が登場していた。天文学の文献ではない一般の文章でも、月食に対して「赤銅色」という表現を普通に使っていたことが分かる。

    …かくて月面は赤銅色を呈し、あるいは薄青紫色を帯び、十一時五十分に至つて全く復月した。…

    小森甚作 編『言文一致文範』,女子文壇社,明39.10. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/866665 (参照 2025-09-18)

    1910年(明治43年)の「天文月報」(現在も出ている日本天文学会の定期刊行物)では平山信先生が、1909年11月27日に起こった皆既月食中の掩蔽現象を写真撮影した報告を書かれていて、そこに「赤銅色」の表現が登場する。

    …其目的は、第一、皆既月食の時分、月面が我々の目には赤銅色をして見えるが、其薄い光が寫眞乾板に感ずるや否や。…

    『天文月報』3(7),日本天文学会,1910-10. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3303874 (参照 2025-09-18)

    余談だが、「月食の正字は「月蝕」であり、「月食」と書くようになったのは戦後である」的な思い込みが間違いであることも、この天文月報の記事から分かった。

    国会図書館の資料で遡れるのはこのへんまでだが、これらを見る限り、もっと昔から広く使われていた用法ではないかと感じさせる。

    用例を検索していて改めて思い出したが、「赤銅色」という色名が赤銅以外の色を例えるのに使われる圧倒的に多い場面は、実は月食の色などではなく、「人の肌の色」である。文学好きな人にとっては、「赤銅色の肌」はおそらくおなじみの表現。

    漁師の肌、印度人の肌、土人の肌(※ 検索で出てきた当時の用例のママ)のように、よく日焼けして艶のある肌や人種的に褐色の肌のことを「赤銅色」と表した用例が実にたくさん目に付く。

    「たらちねの母」などと同じ一種の枕詞として、「赤銅色の」と来たら真っ先に「肌」である、というのが、少なくとも明治期の人々にとっては普通の感覚だったらしいことが用例検索から窺える。

    「赤銅色の肌」という用法は現代の辞書にも載っている。しかし、文学作品以外ではもはや化石的な表現かも。自分も忘れていた。人の肌の色にことさら言及しないという昨今のポリコレの風潮も、この表現の衰退を加速させているかもしれない。

    上で書いたように、赤銅は煮色着色によって黒ずんだ色になる。「赤銅色の肌」とは、生の赤銅の色というよりは、この黒っぽく変化した後の色調に例えた言葉らしい。

    上述の赤銅では銅に1~5 % の金を添加した合金を用いる。この合金を加熱した煮色液に 1 時間ほど浸漬すると,表面に黒青色の皮膜が生ずる。これを赤銅という。赤銅色に日焼けしたというのは,この色のような日焼け具合をいう。

    金属に彩りを添える伝統工芸着色法, 北田 正弘・桐野 文良, 表面科学 Vol. 26, No. 4, pp. 226―230, 2005

    おそらく昔の人にとっては、刀装具や茶道具、金工の象嵌など、生活のさまざまな場に赤銅の現物があり、「赤銅色の」という表現は“暗い褐色で光沢を持つもの”を指すときに誰でも口にする、定番の形容詞句だったと思われる。

    現代ではこれら赤銅の現物が身近なものでなくなるのと同時に、ポリコレ的な配慮もあって肌の色の形容にも使われなくなり、「赤銅色」はもはや皆既月食のときにだけ唐突に登場する不思議な語に見える、ということかもしれない。

  • 今年は20万かかってしまった…。旧車を所有するとはこういうことであり、人生の一部なので悔いはない。高級車でもないおんぼろ車だが、他人から見れば贅沢な趣味に見えるだろう。

    バッテリーがへたっていて、エアコンをつけたまま発進するとエンストする状態だった。最後に換えたのが約10年前だったらしい。なのでバッテリーは交換。

    エアコンをオフにしていれば普通に走れる状態で、バッテリーの表示窓を見ても交換時期の表示にはなっていなかったので長年気づいていなかった。悠長。これはおそらく、アーシングケーブルバッテリーのキルスイッチを施工したおかげと思われる。帰宅して駐車する際には必ずキルスイッチをオフにしているので、たぶん自然放電が少なくて済んでいる。これは本当に取り付けて良かった。旧MINIには必須と言ってもよいおすすめの施工です。

    気づいていなかったが、クラッチの油圧が抜けて切れづらくなっていたとのこと。そういえばギアが入りづらいとは思っていた。本来ならクラッチペダルを数cm上げたところでつながるはずだが、この車はいっぱいまで踏み込んでちょっと上げたところでもうつながる、みたいな感じで、踏みごたえもスカスカだった。毎日は乗らないので、変化に気づかなかった。ということで、クラッチのレリーズシリンダーもアセンブリ交換。この2つが高騰の主な理由。

    ヘッドライトが今の感覚では暗すぎるので、LEDに替えることも相談した。この車のライトは純正のシールドビームというやつで、玉だけLEDにすることはできず、ライト丸ごと交換になると。もうオリジナルのライトだと光量が低くて車検に通らない個体も多い、まだ通るのは珍しいとのことだった。安全に関わる部分なので、オリジナルにはこだわらずLEDライトに替えるつもり。とりあえず金を工面しないと…。

    この年式のクーパーの標準装備としてフォグランプが2灯付いていて、ハイビームにするとヘッドライトと合わせて4灯点灯する。2017年の道路交通法改正でデフォルトがハイビーム走行になったので、これもバッテリーの負荷が増える一因となっている。いずれ Mk-I ぽいスタイルに変えていきたいので、フォグは要らないんだよな。外すか。

  • ローチケアプリに電子チケットが入ったのを確認。これで一安心。

    「確か当選していたはずだけど、当選メールが見つからない」と最初焦ったが、今回はぴあではなくローチケだった。


    巡ループ」のサビ「春の希望も 夏の涙も 秋の変わりも 冬の匂いも」という歌詞の、「秋の変わりも」というのがなかなか凄い。「移り変わり」という言い方はするが、「変わり」だけでこのように使うことはほとんどしないだろう。ここを漢語で「秋の変化も」としてしまうと詞としては全然良くないし、これは素晴らしい選択だと思うが、かなり思い切った言葉遣い。

    中田ヤスタカは音韻優先で凄い言葉遣いをはめ込むということをたまにする。昔の曲で驚いたのは、「Puppy love」の「どうだっていいみたい感じ」という詞。普通に書くなら「どうだっていいみたいな感じ」となるはずだが、これだと音に上手くはまらないので中田先生は「な」をばっさり落としてしまった。これで成立しちゃってるのが凄い。


    靴下の縫い目が目立っているので、裏返しかと思って直したら、もっと出っぱった縫い目が出てきた。あれが表だったのか。USB-Aみたいだ。

  • 近所の公園で撮影。

    いつもの、PENTAX Q7+コ・ボーグ36EDの組み合わせで固定撮影。

    2025/09/08 03:26-03:29 5枚スタック
    PENTAX Q7, BORG コ・ボーグ36ED(200mm F5.6)920mm相当
    ISO1600、0.5秒

    食の前半にもたくさん撮っていたのだが、自分のコ・ボーグ36EDには「絞りM42P1【9421】」が入っていて、これを絞ったまま撮っていたことに後半気づいた。よって上の画像は食の後半に絞りを開けて撮り直したもの。よく考えたら太陽でも撮らない限り【9421】なんか要らんよな。外そう。

    この組み合わせでもピクセル解像度は十分あるので、月縁がガタついているのはシーイングの影響と思われる。

    5枚スタックしたが、月の画像は位置合わせにいつも苦労する。ステライメージの自動位置合わせは(自分で開発しておいてひどい言い方だが)月の画像ではうまく機能しない。月食だと恒星も写るが、フレーム間で1分以上時間差があるので、恒星を基準点にすると月がズレてしまう。結局バッチコンポジットは使わず、2枚コンポジットで「差の絶対値」表示を使い、手動で画像をずらしながら月縁を合わせて加算合成、というのを繰り返してこの最終画像を得た。6時・10時方向に微光星が写り込んでいるが、時間とともにほぼ直線状に並んでいるので、位置合わせはそこそこ正確だろう。

    今回は本影の中心からかなりずれたところを月が通ったせいか、皆既の月の明るい場所と暗い場所の差がかなり大きいように感じた。

    3時前に公園に着いたが、同じく月食を見に来たらしい若人も数人わいわいやっていた。青春を感じる。