• 日曜にやる。家の外に置いてある木製の台が壊れたので新しいのを作った。大工仕事は久しぶり。壊れた台は父が10年ほど前に作ったもので、父の死とタイミングを合わせるようにして壊れた。

    父は大工仕事が好きで、子供の頃は職人になりたかったとよく言っていた。家の中で使うちょっとした棚などをたくさん作っていたが、なぜか電動工具の類は全く持っていなかった。壊れた台も、鋸で板を切り、釘を打って作られている。下穴が必要な場合は錐で開け、木ネジは手回しのドライバーで留めていた。俺達が技術家庭科で習ったのもそんなやり方だったが、さすがに今どきはインパクトドライバーでビス留めだろうと思い、今回インパクトドライバーだけは買った。

    使ってみると、やっぱり電動工具は速さが段違い。あっという間に組み上がった。使い方は YouTube を見れば分かるし。親父にも誕生日とかに買ってやればよかったな。

    下穴を空けずにインパクトを使ったら板が割れてしまったので、ドリルビットも追加で買ってきた。こんなものまでダイソーで買える。

    こうやって、今まで父の役目だったことを一つずつ俺が引き継いでいくことになるのだろう。

  • 気象庁の新 web サイトが使いづらいと書いたが、画面下部のカスタマイズバーから好きな項目を選んでパネルを並べられることに気付いた。これを使って好きなようにカスタムしろということらしい。

    「カスタマイズを保存」という機能もあるが、保存してみても、web ブラウザのタブを閉じてしまうと次からは初期状態での表示となる。カスタマイズした設定の情報が URL 内に列挙されているので、常にこの設定で使いたい場合はブックマークしろということらしい(ただし各パネルのズーム倍率やパネル中央の経緯度は URL にも保存されていないようである)。

    これはこれで便利だが、カスタマイズの柔軟性よりも「良いデフォルト」を提供する方が大多数のユーザーにとってははるかにましだというのもよく言われる。こんなのも作れるんですよ俺、という設計者の自己陶酔を感じて、あまり好きな仕様ではない。

  • 佐々木宏のだらだらした謝罪文と称する文章と比べて、文章力でも圧倒的なレベルの差を感じる。

    https://href.li/?https://elevenplay.net/mikiko_comment_20210326.pdf

    先生は、500人を束ねる立場として、また国家レベルのセレモニーの責任者として、蚊帳の外に置かれて自案を切り刻まれた後の呼び戻し(+尻拭い)になど応じられるはずがない、と明快に述べている。一方、佐々木の謝罪文にはひたすら自己弁護しかない。

    東京都現代美術館のライゾマ展に行きたい。

  • 週刊文春の第2報を読む。この世の醜悪さを詰め込んだような話。

    大人数を動かして大きなものを作るとき、その棟梁には「良いものを作る」というゴールを目指す以外に、「俺達にも甘い汁を吸わせろよ」「俺の仲良しのこいつを使ってやってくれ」みたいな連中が大量にぶら下がってくるのをどう処理するかという仕事が発生する。

    これまでの日本の社会では、こういう寄生虫たちにもほどほどに分け前を与えてくれる棟梁が「できる棟梁」「政治力のある棟梁」とされてきたわけだが、その結果として、中途半端でクソダサいものができ上がってしまうというのもよくある。MIKIKO先生は現在と未来を生きる棟梁として、古臭い干渉によって作品が劣化することを拒んだために、寄生虫たちによって引きずり下ろされた、というのが文春の見立て。

    寄生虫のせいだったのかどうかは不明だが、いかにも日本っぽいクソダサさを世界に晒した例として、1998年長野五輪の閉会式は忘れられない。当時すでにピークを過ぎていた萩本欽一を起用し、欽ちゃんならチャップリン風の衣装だろうという貧困な発想の元にケバケバしい紅白のシルクハットとタキシードを着せ、日本人しか知らない「故郷」を杏里に歌わせて全世界に配信するという悪夢。今回も、志ある有能な人々が排除された結果、あの長野の悪夢を繰り返す路線に着々と近づきつつあるようで、絶望ビリー。

    五輪の開会式・閉会式というのはセレモニー(儀式)で、儀式というのは冠婚葬祭を考えれば分かる通り、必ず「型」を備えている必要がある。ところが、セレモニーとフェスティバル(祭り)をなぜか混同してしまう人が日本には多い。「大観衆に見せるんだから祭りだろ」、みたいな。違うんですよ。渡辺直美を豚にしようという発想も結局、セレモニーではなくフェスティバルを作るのだと佐々木宏たちが勘違いしているところに原因があるのではないか。

    MIKIKO先生はセレモニーとフェスティバルの違いを理解していて、両方作れる人。Perfume のライブはエンタメのショーでありフェスティバルだが、オープニングとエンディングはちゃんとセレモニーとしての型を備えている。2010年の東京ドーム公演は文字通り “GISHIKI” と名付けられたパートから始まったりもしている。言語や文化の壁を越えて世界中の観客を「説得」できるというのがセレモニーの機能であり、だからこそセレモニーには型(様式美)が必要なのだということを先生は分かっている。こういう人を排除して、内輪受けのお祭り騒ぎしか作れない広告屋が残ったというのは、大げさに言えば国益を損なっているとすら思うわけですが、まあ分からない人には永久に分からないのだろう。

  • 入院・手術の保険金がともに振込処理された模様。助かる。