週刊文春の第2報を読む。この世の醜悪さを詰め込んだような話。
大人数を動かして大きなものを作るとき、その棟梁には「良いものを作る」というゴールを目指す以外に、「俺達にも甘い汁を吸わせろよ」「俺の仲良しのこいつを使ってやってくれ」みたいな連中が大量にぶら下がってくるのをどう処理するかという仕事が発生する。
これまでの日本の社会では、こういう寄生虫たちにもほどほどに分け前を与えてくれる棟梁が「できる棟梁」「政治力のある棟梁」とされてきたわけだが、その結果として、中途半端でクソダサいものができ上がってしまうというのもよくある。MIKIKO先生は現在と未来を生きる棟梁として、古臭い干渉によって作品が劣化することを拒んだために、寄生虫たちによって引きずり下ろされた、というのが文春の見立て。
寄生虫のせいだったのかどうかは不明だが、いかにも日本っぽいクソダサさを世界に晒した例として、1998年長野五輪の閉会式は忘れられない。当時すでにピークを過ぎていた萩本欽一を起用し、欽ちゃんならチャップリン風の衣装だろうという貧困な発想の元にケバケバしい紅白のシルクハットとタキシードを着せ、日本人しか知らない「故郷」を杏里に歌わせて全世界に配信するという悪夢。今回も、志ある有能な人々が排除された結果、あの長野の悪夢を繰り返す路線に着々と近づきつつあるようで、絶望ビリー。
五輪の開会式・閉会式というのはセレモニー(儀式)で、儀式というのは冠婚葬祭を考えれば分かる通り、必ず「型」を備えている必要がある。ところが、セレモニーとフェスティバル(祭り)をなぜか混同してしまう人が日本には多い。「大観衆に見せるんだから祭りだろ」、みたいな。違うんですよ。渡辺直美を豚にしようという発想も結局、セレモニーではなくフェスティバルを作るのだと佐々木宏たちが勘違いしているところに原因があるのではないか。
MIKIKO先生はセレモニーとフェスティバルの違いを理解していて、両方作れる人。Perfume のライブはエンタメのショーでありフェスティバルだが、オープニングとエンディングはちゃんとセレモニーとしての型を備えている。2010年の東京ドーム公演は文字通り “GISHIKI” と名付けられたパートから始まったりもしている。言語や文化の壁を越えて世界中の観客を「説得」できるというのがセレモニーの機能であり、だからこそセレモニーには型(様式美)が必要なのだということを先生は分かっている。こういう人を排除して、内輪受けのお祭り騒ぎしか作れない広告屋が残ったというのは、大げさに言えば国益を損なっているとすら思うわけですが、まあ分からない人には永久に分からないのだろう。