ALPS処理水

の放出が疑義を差し挟む余地もないほど安全であると言える理由について、菊池誠さん(大阪大学教授、物理学)がnoteに書いている。話はこれで尽きている。

https://note.com/kikumaco/n/n1e7b21ff0420

最近は、トリチウムの危険性を言い立てるのは無理筋だと反対派の人々もようやく気づいてきたようで、「トリチウム以外の核種が残ってるじゃないか」という方に彼らの主張が移りつつあるように見えるが、そこも全く心配ないことが、これを読めば分かる。

「告示濃度限度比の総和が1未満」という言葉の意味についてもっと知りたい人は、例えば以下のパワポの絵が参考になるかも。字が多い? まあそうですね…。

具体的には、1種類の放射性物質が含まれる水を、生まれてから70歳になるまで毎日約2リットル飲み続けた場合に、平均の線量率が1年あたり1mSv に達する濃度が限度として定められています。この放射性物質ごとの濃度の限度は「告示濃度限度」と呼ばれています。
一般的に、原子力発電所等からの液体・気体廃棄物には複数の放射性物質が含まれています。そこで、複数の放射性物質の影響が考えられる場合には、廃棄物中に含まれるすべての放射性物質による影響を総合して「告示濃度比総和」という考え方が用いられ、この告示濃度比総和が「1」を下回るように規制がおこなわれます。

環境省_放射性物質を環境へ放出する場合の規制基準

どういうわけか「安心したくないし学びたくもない人」というのも世の中にはいるので、そういう人は菊池さんのnoteを読んでも安心しないし、学びもしないだろうな、という諦めもある。しかし、全部放出するにはあと30年かかるらしいが、彼らはあと30年騒ぎ続けるつもりなのだろうか。

いつからか「安全安心」という言葉を一部の人々が好んで使うようになったが、これが良くないと個人的には思っている。「安全性」はいくつもの科学的指標で測定でき、客観的な定義を作れる概念だが、「安心感」は個人の主観や内心の問題なので、そもそも社会全体として追い求めるようなものではないはず。「いやー、お前らがいくら言っても俺は安心できないね!」という人が一人でもいれば永久に終わらないわけだから。だから「安全性の追求」と「安心感の追求」を混ぜたり、セットで語ったりしてはいけないはずなのだが、混ぜたがる人がいる。

そうやって安全と安心を抱き合わせで扱い、科学的に安全性が認められた結果を無視して、学ばない人々の『不安だ』というお気持ちばかりに過剰に寄り添った結果、攻撃されなくていいはずの人が責められたり、無駄な時間と金が浪費されたり、死ななくて良かったはずの人が死んだり、という現象が繰り返されている。BSEの全頭検査とか、豊洲市場用地の汚染問題とか、子宮頸がんワクチンの接種勧奨中止とか、コロナの反ワクチンとか。中世かと。HPVワクチンなんて、存在しないリスクをメディアが煽って政府の接種勧奨が8年間止まった結果、2000〜2003年生まれの日本の女性は、これから約4000人が子宮頸がんで過剰に死亡すると推定されている。ひどい話だ。

ALPS処理水も、風評を恐れて何年も水を抱え込んだ結果、逆に「放出してはならない危険なもの」という迷信を強化してしまった。淡々と放出し、風評の流布には厳罰を以て臨む、TVCMやYouTube動画などで正しい説明を迅速・大量に発信する、といった方法がもっとあったはず。

たぶん、生き物としての生存本能から「恐怖心・不安感」という感情が生まれ、群れを存続させるという集団的な生存本能から「正義感」という感情が出てくるのだと思うが、科学というきわめて効果的な道具を手に入れた近代人は、恐怖心と正義感を持ちすぎない方がいい。恐怖心と正義感を振りかざす人々は必ず殺し合い、結局群れ(人類)は生存できなくなる。もっとみんな適当に生きよう。恐怖心と正義感の代わりになるものが欲しければ、

ミッションちゃんの大冒険 (みっしょんちゃんのだいぼうけん)とは【ピクシブ百科事典】