田村眞一先生(1939-2024)

関宗蔵先生より、TENNETに訃報が投稿されたと中里さんから聞いた。

友人や学校の先生たちの思い出の中で、集団の中で目立つ立場ではなかったのにひときわ強い印象を残している人がいる。東北大天文で教わった先生方の中で、田村さんはそういうタイプの人だった。

我々が教養部を終えて学部(宇宙地球物理学科天文学コース)に上がったとき、田村さんは助手で、「天体観測」という講義を受け持っていた。業績目録で改めて確認すると、1968年から1994年6月まで、26年間も助手のままだったことが分かる。なぜ?と当時大変失礼なことを最初に思ったのを記憶している。(組織における人事や昇任にはいろいろな機微があることを後に知った。先生は後に1996年に東北大学大学院教授に就任され、7年後の2003年に定年退官。)

大変優しい先生で、学部3年で学科に配属されたばかりの我々の名前をすぐに全員覚えてくれた。毎年全員の名前を覚えることにしている、と最初の講義で仰っていた。そんな先生は他にいなかった。

当時は天体撮像の分野でも銀塩写真に代わってCCDカメラが本格的に使われるようになった時代で、我々の一つ上の学年では、田村先生の指導でCCDカメラを自作するということをやっていた記憶がある。そのための教科書として、洋書の The CCD Camera Cookbook という本を参考にされていた。我々の天体観測の授業でも、ことあるごとに田村さんが「クックブックが…」と言っていた、その口調を今も覚えている。

当時の東北大は自前の天文台を持っておらず、理学部物理棟の屋上にドームがあって、日本光学製の年代物の反射赤道儀があった。口径20cmとか30cmとかそのくらい。

天体観測の授業の中で学科内を見学して回る日があり、ドーム内でCCDカメラの開発をしている先輩(中里さんか三輪さん)の作業を覗かせてもらったことがあった。しばらく見た後、田村さんと他の学生はドームを出て次の場所に行ったのだが、僕と数人はなぜかその場に残ってずっと説明を聞いていた。面白かったせいか、あるいは先輩の話が終わらなくてお暇しづらかったからかもしれない。しばらくして、我々がいないことに気づいた田村さんが戻ってきて、「あ、ここにいたのか(笑)」といって呼び戻してくれた。怒られるかと思ったけど怒られなかった。

天体観測の実習で、夜にドームの望遠鏡を使って1等星の分光をしたのも覚えている。苦労して望遠鏡視野のスリットの上に恒星を導入し、分光された光を1次元のCCDセンサーで受けて、そこからのデータ出力をRS-232C経由でPCに取り込んでスペクトルのグラフを描く、というようなことをした。水素のバルマー系列の吸収線がちゃんと見えて、星のスペクトル型によって線幅なども違っていることが分かって面白かった。東大・京大の天文に比べれば設備的にも地味な学科だったと思うが、その中でも田村さんは、本物の観測天文学の入口を学部生の我々に経験させようと奮闘していたのだと思う。

田村さんの専門は惑星状星雲や共生星で、Osterbrock の Astrophysics of Gaseous Nebulae and Active Galactic Nuclei という有名な本を翻訳されている。天文業界で (AGN)2 とか AGNAGN と呼ばれている本。

自分は大学院からは仙台を離れたので、田村さんと同じ場所にいたのは2年だけだが、とにかく優しい人だったなという印象。ラフな格好をしていることがなくて、いつでもスーツかジャケットを着ていた。

自分が仙台を離れた後に、どこかの学会に出張したときだったか、電車の中で田村先生と偶然会って、少しの時間だけサシでお話をさせていただいたことがあった。共通の話題というと東北大時代の先輩・同級生・後輩の話くらいしかないので、そんな話をして、池田君(自分の一つ下)が今も頑張って活躍していますね、というような話を聞いた。

人が亡くなった後でできることはほとんど何もないが、その人の思い出をこうして自分なりにまとめて形にしておくことは、数少ない、できることの一つだろうと思っている。ご冥福をお祈りします。