新星景写真

というのが流行っている。天体写真の一ジャンルとして、星空が入った風景写真を「星景写真」と呼ぶわけだが、地上風景に比べて夜空は圧倒的に暗いため、これまでは地上と星空を両立させる表現の仕方がおのずと限られていた。

普通に夜景が写るくらいのシャッター速度(〜数十秒)で星景写真を撮ると、夜空の天体はあまり写らない。特に光害のある都市部では、市街光が大気中の水蒸気や塵で散乱されて夜空自体が明るいため、明るい星くらいしか写らない。夜空の暗い理想的な場所で撮っても、数十秒の固定撮影である限り、淡い星雲や天の川はあまり写らない。

かといって露出時間を延ばせば、日周運動で天体は動いてしまう(あえて星が日周運動する軌跡を見せる撮り方もある)。地上風景を入れない普通の天体写真(星野写真)では赤道儀にカメラを載せて追尾撮影するが、星景でこれをやると、星が止まって写る代わりに地上風景が動いてしまう。

そこで「星景」では、地上は数十秒の固定撮影で撮り、星空は赤道儀を使って1分〜数分間追尾撮影する。この両者を Photoshop や専用ソフトを使って合成し、一枚の作品にする。

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要するに合成写真(フォトモンタージュ)なのだが、シュルレアリスムではなく従来のネイチャーフォト・科学写真の仲間として扱ってもらうために、「1枚撮りした場合と同じ時刻・構図で前景と夜空を撮る」というルールを守ればまあいいんじゃないの、ということになっている。

ただ、俺は新星景は好きではない。ここ数年で完全に見飽きたというのもあるが、表現としてどうしても克服できない気持ち悪さがある。俺は新星景の何に気持ち悪さを感じているのだろう、とずっと考えていたが、「前景と星空の『時間変化』が折り合わない」ところが最大の原因かなと思い当たった。

基本的に、地上は人間が感じ取れるくらいのタイムスケールで激しく変化するが、宇宙は変化しない。天体はきわめて遠方にあるきわめて巨大な物体なので、変化のタイムスケールが人間のタイムスケールとは違いすぎて、人間の目にはいつ見ても同じようにしか見えない。実際、17世紀にガリレオが観察と実験を始めるまでは、月より近距離にある地上世界は生々流転するが、月以遠の宇宙は完全で不変だと信じられていた。

星景写真には必ず、人間が造った建物、風にそよぐ植物、水面、季節を反映する山並みなど、地上世界の時間変化や万物の流転が被写体として写り込んでいる。星景写真の星空も、あえて日周運動の軌跡を見せたり、大気減光や地上光の散乱とあえて共存させることで、流転する地上の一部(背景)として描かれる。私たちが風景の中で星空を見たときにふと感じる情感を切り取ったもの=星景写真、というのが俺の認識だ。

一方、天体をクローズアップする星野写真では、基本的に時間変化は描かない。彗星などの突発天体はまあ変化を見せるが、星雲星団や天の川はいつ撮っても同じようにしか見えないからだ。近年では、数日〜数か月にわたって何百・何千枚も撮影した一つの天体の画像を重ねて S/N 比を向上させ、一枚の作品にすることが一般的になっている。こうした大量スタッキングで作品を作る場合、個々のコマの撮影日時はもはや意味を持たない。

このように、星景写真と星野写真は「変化する世界が写り込んでいるかどうか」という点で全く異なっている。にもかかわらず、新星景では両者を無神経に混ぜて、見かけの「映え(ばえ)」だけを追求しているところが、俺にはたまらなく気持ち悪い。前景と星空のタイムスケールが違いすぎて両者が溶けあっていないので、星景写真として情感を感じることもできないし、星野写真の天体描写に感じるような驚嘆が湧き上がることもない。

今月の『星ナビ』の天体写真ギャラリーで、新星景の応募が増えている現状を踏まえて「評価軸を変えなければならないかもしれない」と選者氏がコメントしているが、個人的には、絶対に肉眼では見えないケバケバしい天の川が*必然性もなく*背景に鎮座しているような安直な新星景写真は全部落選でいいと思っている。異質なものを混ぜるなら、混ぜることで何か「新しい良いもの」が生まれるのでなければやる意味がない。

新星景