バズっている漫画。『栄光なき天才たち』が好きだった人ならきっと好き。
世界初の電子計算機がどれかというのは議論があるが、ENIACは米陸軍に納入されて初期には弾道計算や水爆の理論計算に使われたといわれている。アラン・チューリングのBombeはエニグマ解読のための専用機だった。日本初の電子計算機とされるFUJICがレンズの光学設計のために開発されたという歴史は、糸川英夫のペンシルロケットにも通じる日本らしさ。「非軍事分野でなんか面白いことしようや」という。まあ日本が戦争に勝っていたらまた違っていたんだろうけど。
子供の頃、俺の父は個人経営のオフセット印刷会社をやっていて、母は和文タイプライターのタイピストだった。大きな出版社が出すような書籍ではなく、学校の文集とか名刺とかチラシとかを印刷する町の印刷屋というのが昔はどこにでもあって、父の印刷屋もそういう感じ。『男はつらいよ』のタコ社長が経営していて博が勤めている、ああいう規模の印刷屋だった。そういう「軽印刷」の版下を作ったり、会社の社内文書を作ったりするのに使われていたのが和文タイプライター。書体・級数ごとに用意されている活字盤をタイプライターにセットして、目視で1字ずつハンドルで拾って打っていく。
http://www.kinosita.itabashi.tokyo.jp/mm_museum/mm_museum/html/jap_type.htm
1980年代に日本語ワードプロセッサーが出現し、さらにPCの時代に入ると、こういう小規模な印刷物はDTPで自作できるようになり、両親がやっていたような仕事はなくなった。和文タイプは1990年頃にはもう絶滅していた。小規模な印刷所は現在もあるところにはあるが、今も生き残っている会社では事業の柱がwebサイト構築や動画制作に置き換わっていたりする。今、名刺を作ろうと思ったらネット注文できるラクスルとかそのへんのキンコーズとかに出すだろう。(本当は、昔ながらの印刷屋できちんと刷ってもらう名刺の方が高級感が違うのだが。)
母は和文タイプから、業務用の電子組版編集機、ワープロ専用機(富士通のOASYS)など、時代の変遷に合わせていろんな機械を覚えて仕事をしていたが、Adobe Illustratorを使う仕事あたりで限界を感じたのか、この業界をやめて、パートで学食の調理の仕事や清掃の仕事をするようになった。父親は自分の印刷屋を潰した後、いろんな印刷屋の従業員として働き、やがて印刷の仕事だけ取ってきてつてのある印刷所に刷ってもらうブローカーのような仕事に変わり、最後にはスポーツジムの清掃・メンテナンスのアルバイトとして一生を終えた。
時代とともに消える仕事もあり、新たに生まれる仕事もある。「これさえ身に付ければ一生食える」というのは幻想で、たいていの人は商売替えをしながら何とか生きていくものだ、という話は新美南吉の『おじいさんのランプ』とかにも描かれている。